「我鳥(わどり)」と「汝鳥(などり)」。あまり聞き慣れない言葉であるが、これらは『古事記』の上巻「沼河比売求婚」における次の部分からのものであろう。
八千矛(やちほこ)の 神の命(みこと) ぬえ草(くさ)の 女(め)にしあれば 我が心 浦渚(うらす)の鳥ぞ 今こそは 我鳥(わどり)にあらめ 後(のち)は 汝鳥(などり)にあらむを 命(いのち)は な殺(し)せたまひそ いしたふや 天馳使(あまはせづかひ) 事の 語言(かたりごと)も 是(こ)をば
これは「八千矛神(大国主神)」が「沼河比売」に求婚する際に歌った歌に対する「沼河比売」からの返歌である。ただ、この『古事記』の内容と掲句との関連性については、あまり具体的な部分まで踏み込んで考える必要はないのかもしれない。
掲句は、昭和54年(1979)刊行の第3句集『鷓鴣』収載のものである。三橋敏雄は、戦時中に渡辺白泉や阿部青鞋らと古俳諧を学び、昭和41年(1966)刊行の第1句集『まぼろしの鱶』において、その俳諧的な要素を徐々に取り入れ、続く昭和48年(1973)刊行の第2句集『眞神』では、完全に俳諧の技法を自らのものにするといった経過を辿っている。そして、その後の第3句集『鷓鴣』もまたそういった古典的な要素を基にした作品世界が展開されている。
実際の作品を見てみると、第1句集『まぼろしの鱶』では〈裂き燃やす絵本花咲爺冬〉〈死ぬまでは転ぶことなく寒雀〉〈誰が世ぞままごと椀のあかのまま〉、第2句集『眞神』では〈ぶらんこを昔下り立ち冬の園〉〈こぼれ飯乾きて米や痛き秋〉〈鈴に入る玉こそよけれ春のくれ〉、第3句集『鷓鴣』には〈いくたびも日落つる秋の帝かな〉〈一生の幾箸づかひ秋津洲〉〈凪の海ゆゑ浮かび来ん幾柱〉などといった句が確認できる。掲句もまたこの流れの内に見出すことができる作品といえよう。
掲句を新興俳句時代の〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉と比べた場合、その雰囲気が随分と変化していることがわかるはずである。「かもめ来よ」の句が戦争という切迫した状況下における切実な願望の表出であったのに対して、掲句の方は、もはや主体自身がそのまま「鳥」と化して「おほぞら」をほしいままに回遊しているといった趣きがある。
ただ、戦後においても、三橋敏雄にとって戦争は当然変わることのない重大なテーマであり、作品としても〈いつせいに柱の燃ゆる都かな〉〈絶滅のかの狼を連れ歩く〉〈またの夜を東京赤く赤くなる〉〈かの日夏逆立つふねを見尽しぬ〉〈銀座銀河銀河銀座東京廃墟〉〈あやまちはくりかへします秋の暮〉〈戦争と畳の上の団扇かな〉など、数多くの戦争に関する句が確認できる。
掲句は、無季の句ということになる。無季でも、ここまで広大な作品世界が表現可能であるという事実に驚嘆の思いのするところがある。「我鳥(わどり)は汝鳥(などり)」。これは「もろびと」に対する「あらゆる存在は須く等しい」という呼びかけであろうか。そして、ここに戦争とも通底するテーマ性が窺えるように思われる。また、同じ句集には〈食ふ肉と滅びあふ身ぞ空のあを〉という句も見られ、作者の単なる上辺のみではない存在の宿命性に対する厳しい認識というものを見て取ることができよう。
究極のところ、三橋敏雄の句業を根底で成り立たせていたのは、俳句形式への飽くなき探求心と時代によって強いられた個人を越えた意識の在りよう、そして、いまここに述べた存在(生命)の宿命性に対する真に迫った深い認識ということになるのではないかと思われる。
三橋敏雄(みつはし としお)は、大正9年(1920)、東京生まれ。昭和10年(1935)、句作開始。昭和12年(1934)、渡辺白泉に私淑。昭和13年(1938)、西東三鬼に師事。昭和28年(1953)、三鬼の「断崖」同人。昭和37年(1962)、「天狼」同人。昭和38年(1963)、「面」創刊に参画。昭和40年(1965)、「俳句評論」同人。昭和41年(1966)、第1句集『まぼろしの鱶』。昭和48年(1973)、第2句集『眞神』。昭和52年(1977)、初期句集『青の中』。戦火想望句集『弾道』。昭和54年(1979)、第3句集『鷓鴣』、間奏句集『巡禮』。昭和57年(1982)、『三橋敏雄全句集』(第4句集『長濤』を含む)。昭和63年(1988)、第5句集『疊の上』。平成2年(1990)、増補版『三橋敏雄全句集』。平成8年(1996)、第6句集『しだらでん』。平成13年(2001)、逝去(81歳)。