【57】  萩桔梗またまぼろしの行方かな   赤尾兜子

「萩」と「桔梗」から連想されるのは、やはり「秋の七草」となろう。「秋の七草」といえば、『万葉集』の〈萩の花尾花葛花撫子の花女郎花また藤袴朝貌の花 山上憶良〉が想起されるところがあるが、この歌の最後の「朝貌の花」については、一般に知られている「朝顔」ではなく「桔梗」のことを意味するのではないかという説が有力である。ということで、掲句はやはり「秋の七草」が基となって成された作品なのであろう。

掲句は、兜子の10代の時期である昭和16年(1941)から昭和20年(1945)の作品を収録した句集『稚年記』収載のものである。この句集には他に〈水仙に氷のごとき光塵(ひかり)かな〉〈蟵(かや)に寝てまた睡蓮の閉づる夢〉〈片蔭や万里小路(までのこうぢ)に蟬鳴くも〉〈青葡萄透きてし見ゆる別れかな〉〈塊(くわい)の如く大年の廈(いへ)昏れにけり〉など、掲句にしてもそうであるが、これらの作品を見ると、それこそ兜子はこの10代の初期の頃において既に作者として殆ど完成されていたという印象を受けるところがある。

しかしながら、掲句における「まぼろし」とは、一体何を意味しているのであろうか。いまひとつはっきりとしないながらも、ここからはまるで「萩」と「桔梗」の存在自体が、そのまま巡り続ける季節の中におけるひとつの幻像であるかのように思われてくるところがある。また、同じ『稚年記』における先程の「また睡蓮の閉づる夢」の句にしても、「睡蓮の閉づる夢」という「まぼろし」が詠まれており、兜子の作者としての資質や特徴は、この10代の作品の上において既に現前しているのではないかと思われる。

その後における、第1句集『蛇』の〈霧の夜々石きりきりと錐を揉む〉〈積雪映す嵐を溜めた風船たち〉〈音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢〉や第2句集『虚像』の〈空(から)井戸あり繃帯の鶏水色に〉〈檻の豹より減るかがやきの氷挽く〉〈硝子器の白魚 水は過ぎゆけり〉などの前衛俳句時代の作品にしても、『稚年記』にその萌芽が見られた「虚への指向性」の延長線上のものとして見ることができるようにも思われる。

また、伝統的な作風へとシフトした第3句集『歳華集』にしても〈冴える石の家ピアノ線ひとり雨となる〉〈機関車の底まで月明か 馬盥〉〈花から雪へ砧うち合う境なし〉〈醒めぎわに苜蓿(うまごやし)みな花を置く〉〈ぬれ髪のまま寝てゆめの通草かな〉〈葛掘れば荒宅まぼろしの中にあり〉などが見られ、また『歳華集』以後の作品を収めた『玄玄』においても〈虚室のかなた白盡(つく)し飛ぶ冬鷗〉〈白玉やゆきしたましひたをやかに〉〈さしいれて手足つめたき花野かな〉〈こがらしが像(かたち)のみえぬもの吹けり〉〈狼のごとく消えにし昔かな〉〈ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう〉など、やはり単なる現実の事象のみならず虚の要素を抱えた作品の存在をいくつも確認することができる。

このように見ると、その作風は表側においては随分と紆余曲折を経つつも、その根幹にある「虚への指向性」については、終始一貫して変っていないのではないかという気がする。

兜子には、強い主観というか、生来よりの過剰なまでの「詩心」が内在しており、それがその作品において特異な作風や魅力となって表れていたわけであるが、反面それゆえに「自己の内なる世界」と「現実」との間に埋めがたいギャップが否応なく生じる結果となっていたのではないかと思われる。虚と実、抽象と具象、夢と現実、前衛と伝統、幽と明など、こういった背反する要素を如何に作品の上に止揚し得るかという「危うい懸橋」の上ともいうべき地点において成された赤尾兜子の作品群は、いまなお重厚な威容を湛えて現在の俳句の前に聳えているといっていいであろう。

赤尾兜子(あかお とうし)は、大正14年(1925)、兵庫県姫路市生まれ。昭和16年(1941)頃に「馬酔木」や「火星」に投句。1948年(昭和23年)、俳誌『太陽系』同人。昭和30年(1955)、「坂」創刊。昭和33年(1958)、「俳句評論」参加。昭和34年(1959)、第1句集『蛇』。昭和35年(1960)、主宰誌「渦」創刊。昭和40年(1965)、第2句集『虚像』。昭和50年(1975)、第3句集『歳華集』。昭和52年(1977)、初期句集『稚年記』。昭和56年(1981)、逝去(56歳)。昭和57年(1982)、『赤尾兜子全句集』。