この世界というものは、所詮「一睡の夢」に過ぎないのであろうか。そうであるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。突き詰めて考えてみたとしても、結局本当のところは誰にもわからないという結論に達せざるを得ないということになる。
折笠美秋の作品において、生涯を通じてのテーマとなっているのは、おそらくこういった問題意識なのではないかと思われる。その作品を見てみると、初めの時期から中期にかけて〈青桃や夜は海からかえつてくる〉〈緑の蝶なれば今日ではないかもしれぬ〉〈はなびらや 石が旅ゆく石の刻〉〈いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく〉〈偶然のおわるあたりに桃を植え〉〈青蜜柑あすあさつてが見えてくる〉〈杉林あるきはじめた杉から死ぬ〉〈みつめる滝に水みえはじめみえなくなる〉など、割合空想的な内容でありながら、一方で現実の世界の深い把握となっているとでもいった、それこそ夢と現実が混在しているかのような作品世界が展開されている。
他にも、折笠美秋には〈筐(はこ)から筐をとり出すあそび鳥雲に〉〈逝くことの巨きな鳥の陸奥山河〉〈杳(よう)として左手は在り春の暮〉〈夢夢(ぼうぼう)と湯舟も北へ行く舟か〉〈わが美林あり檜葉杉葉言葉千葉〉〈赫き寝衣こそ幻世(このよ)なれ雪の音〉〈菜の花継げば彼岸にとどく物干竿〉〈汝と呼んでみる吾があり水の暮〉〈月光写真まずたましいの感光せり〉などといった句があるが、やはりやや屈曲を伴ったかたちによる重層的な現実把握が成されていることが見て取れよう。「逝くことの巨きな鳥」、「夢夢(ぼうぼう)と」、「幻世(このよ)」、「彼岸」、「たましい」などといった言葉を伴う表現からは、それこそどこかしらこの世界そのものを遠くの場所から眺めているかのような雰囲気が感じられるところがある。
折笠美秋は、昭和57年(1982)に「筋委縮性側索硬化症(ALS)」を発症し、昭和58年(1983)には入院生活を送ることになる。ただ、その病床の内にあっても、作品における指向性については、根底の部分ではこれまでと通底する部分が少なくないように思われる。この時期の作品として〈志と詞と死と日向ぼこりの中なるや〉〈舞う雪も君も触れれば消える旅か〉〈思えばかなし桜の国の俳句かな〉〈仮(かり)の世に師あり友あり露けしや〉〈まぼろしの世に定型と月雪花(げつせつか)〉〈雪達磨 我を旅行く我れ居りて〉〈別の世とは水であること桃にも吸われ〉〈幼な雪自分を夢と思い消ゆ〉〈黒潮の新海溝に夢桜〉〈行き果ての夢山脈よ行き果てず〉などといった句が見られるが、やはり現実と夢が縒り合わされるようなかたちで描出されていることがわかる。むしろ現実自体が動かし難い困難さを以て迫ってくるにつれ、それと同時に作品の内においてはこの世界そのものがより一層夢幻の相を帯びる結果となっているようにさえ思われる。
掲句は、昭和61年(1986)刊の第2句集『君なら蝶に』収載の作品である。まさに「五里霧中」ともいうべき状況が描かれているわけであるが、ここに見られる「霧の中では霧を見る」という行為は、単に眼前の霧を眺めるという表層的な意味のみならず、このある面では夢のようでもある現実そのものに対して深く目を凝らすことの謂いと見做すこともできそうである。折笠美秋の句業は、まさにこの「霧の中では霧を見る」という強い意志を伴った「まなざし」に貫かれたものであったのではないかと思われる。
折笠美秋(おりがさ びしゅう)は、昭和9年(1934)、横須賀市生まれ。昭和33年(1958)、高柳重信「俳句評論」創刊、編集同人。昭和48年(1973)、「晴の会」を阿部完市、飯島晴子、原裕らと結成。昭和58年(1983)、北里大学病院に入院。高柳重信死去。昭和59年(1984)、第1句集『虎嘯記』(俳句評論社)。昭和60年(1985)、第32回現代俳句協会賞。昭和61年(1986)、第2句集『君なら蝶に』(立風書房)。平成元年(1989)、第3句集『花傳書』(騎の会)、『死出の衣は』(富士見書房)。平成2年(1990)、逝去(55歳)。平成10年(1998)、評論集『否とよ、陛下』(騎の会)。