【63】  いつもかすかな鳥のかたちをして氷る   対馬康子

ここに描かれているのは、一応「氷」のみということになる。「氷」は、冬の季語であり、主に池や川、北の地方では海などが氷ることを意味する。ただ、掲句においては、さほど具体的な景観を思い浮かべる必要はないのかもしれない。

ここには、主として「氷」の実在そのもののイメージが表現されているのではないかと思われる。改めて考えてみると、「氷」というものは、なかなか神秘的な趣きがあるといえよう。形状にもよるが、透明感があり、その質感からはなにかしらの鉱物を思わせるところもある。また、水が結氷する際のことを考えても、それまで液体であったものが、ある境を経て「氷」という固体へと変化する現象については、それこそひとつの驚異のように感じられるところがある。

そして、ここでは、その「氷」が「いつも」、「かすかな鳥のかたち」をして凍結するものであると断定されている。たしかにそのように指摘されると、「氷」には、どこかしら「鳥」の存在を連想させる部分があるような感じもしてくる。それこそ「氷」の冷やかさとその硬質感からは、鳥の嘴の鋭さが想起されるところがあるといえよう。また、それゆえに掲句には、鋭利さや危うさなどといった鋭敏な感覚が内在しているように感じられる部分もある。

一応、解説を試みるならば、およそこのような感じとなるわけであるが、掲句は、単に言葉の意味性のみに依拠した作品ではないのではないかと思われるところもある。この作者には〈歳月は砂山となる夏帽子〉〈キャンドルになりたき黒人少女のイヴ〉〈マフラーをはずせば首細き宇宙〉〈こころまで消す黒板よ遠い雷〉〈国の名は大白鳥と答えけり〉〈見えぬもの見るため白夜始まれり〉〈月光やあの手も燃えてしまいけり〉〈朝顔という月光を巻きつけて〉〈雪の日が帽子のように暮れ残る〉〈オルガンのペダルを踏んで枯野まで〉などといった作品が見られるが、これらの句は単に事物をそのまま描写した作品とは異なる性質のものであることが理解できよう。季語にしても、そのまま一元的に使用されているわけではなく、句の中において象徴性を帯びるかたちで用いられているように見える。

こういった単一的な言葉の意味性を峻拒するかのような作風は、掲句ともいくらか通底する性質のものといっていいであろう。それこそこの作者には、一面的な意味性を越えたところにおいて言葉の力を発揮させようとする意志が内在しているのではないかと思われる。

結局のところ、対馬康子という作者が描こうとしているのは、おそらく言葉のみで創造された時空間、即ち「ひとつの世界」そのものということになるのであろう。

対馬康子(つしま やすこ)は、昭和28年(1953)、香川県高松市生まれ。昭和48年(1973)、中島斌雄の「麦」入会。昭和51年(1976)、「麦」同人。昭和61年(1986)、第1句集『愛国』。平成2年(1990)、有馬朗人の「天為」創刊に参加。平成5年(1993)、第2句集『純情』。平成16年(2004)、『セレクション俳人13 対馬康子集』(邑書林)。平成19年(2007)、第3句集『天之』。