【67】  青あらし神童のその後を知らず   大串章

数え切れない程の青い葉が音を立てて風に靡いている様子は、なんとも壮観である。「青嵐」は夏の季語であり、初夏の青葉を揺すりながら吹き渡るやや強い風のことを意味する。

また、「神童」とは、特定の分野において卓越した能力を発揮する子供に対しての呼称であり、現在でも音楽やスポーツ、将棋、数学、記憶力など驚嘆すべき能力を備えた子供の存在は少なくない。

おおよその句意としては、幼少の頃特異な能力を発揮して「神童」の名をほしいままにした子供も長じて大人となり、既に人々の記憶からもほぼ忘れ去られた、といったものとなるのであろう。

「神童」であった彼は、一体いまどこでどのようにして暮しているのだろうか。かつての「神童」としての才質は、現在では既に消え失せてしまっているのであろうか。「その後」の消息を仄聞することのないゆえ、その可能性は高いということになるのかもしれない。しかしながら、例えもしそうであったとしても、そのことは果たして彼にとって不幸なことであるのか、それとも存外幸いな結果をもたらすこととなっているのか。そういった事柄もいまとなっては、青葉を騒がして通り過ぎてゆく風の行方のように杳として知れないということになるようである。

このようなかつての「神童」への思いと共に、ここには「私」の自らの過去の記憶に対する懐旧の念がいくらか表出されていると見ていいであろう。それこそここからは、過去の追憶による抒情性が少なからず感じられるところがあるが、この抒情性の要素については、師系である臼田亜浪、大野林火からの流れに由来するものでもあり、この作者の作品における大きな特徴のひとつとなっている。他にもそのような抒情性を感じさせる作品として〈閉じてなほ優し月下の楽器店〉〈鳥雲に腕あげて木偶哭きにけり〉〈蜷道や日暮に近き風の音〉〈みづうみへ向き湖の子の雪だるま〉〈噴水に真水のひかり海の町〉〈雪山に灯を点すべく山家あり〉〈春の雪山ふところに畏友あり〉〈芦刈つて夕日に橋を浮かべたる〉などが挙げられる。

そして、「その後を知らす」という中七から下五への句跨りが、やはり同じく破調を伴う作品の少なくない亜浪、林火の作風をそのまま髣髴とさせるところがある。このような破調的な傾向を持つ作品は、他にも〈寒夜ねぢ捲く明日の時間を仕込むごとく〉〈泳ぎの少年島に上がれば島で光る〉〈拓きて棄てし地に降るばかり夏荒星〉〈南瓜の花萎みぬ民話終りしごと〉〈雉子二声師を思へとや忘れよとや〉〈砂山に蜂唸りサンテグジュペリ忌〉〈海蜷のぞくぞく上がりくる涅槃〉などが見られる(特に初期の頃が顕著)。

また、掲句については、「神童」というやや超俗性を帯びた言葉と、それに取り合わせられた季語である「青あらし」の持つアニミズム的な雰囲気ゆえ、まるで「神隠し」という言葉の存在が思い浮かんでくるところもある。

大串章(おおぐし あきら)は、昭和12年(1937)、佐賀県生まれ。大野林火に師事し、のち「百鳥」主宰。昭和53年(1978)、『朝の舟』。昭和59年(1984)、『山童記』。平成3年(1991)、『百鳥』。平成11年(1999)、『天風』。平成17年(2005)、『大地』。平成21年(2009)、『山河』。