【79】  水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首   阿波野青畝

掲句は『春の鳶』収載のものであるが、原案は「水揺れて鳳凰堂にわたる蛇」(『俳句研究』昭和25年12月)であったという。双方を比較してみると、「蛇」が水を泳いで「わたる」情景が描かれているという点ではどちらも同じながら、やはり原案においては「わたる」という表現がやや説明的で余分といえよう。

また、原案における「鳳凰堂にわたる蛇」という表現では、掲句の持つある種の臨場感がさほど強く感じられないところがある。一方、その掲句の上においては、「鳳凰堂に」ではなく「鳳凰堂へ」という表現が採られており、この言葉の作用によってまさに「蛇」が鳳凰堂へと一心に向かってゆく様子がそのままありありと浮かんでくる感がある。

あと、下五「蛇の首」の措辞にも注目したい。もし通常の表現ならば、この部分はせいぜい「蛇泳ぐ」あたりの水準にとどまっていたであろう。試みに改変例を示すならば「水ゆれて鳳凰堂へ蛇泳ぐ」あたりとなるわけであるが、これでは、「水ゆれて」と「泳ぐ」の言葉が互いに搗(か)ち合ってしまい、表現としての洗練さを欠く結果となってしまう。それとは別に、掲句においては、「水ゆれて」という上五の措辞に対して、下五を「わたる蛇」や「蛇泳ぐ」ではなく「蛇の首」というやや特殊な、しかし具体性を伴った無駄のない表現へと絞り込むことによって、まさに「首」だけを出して泳いでいる蛇の様子が、そのままの姿を以て髣髴としてくるところがある。

また、上五にしても「水揺れて」ではなく「水ゆれて」であり、この平仮名表記による作用から水面のかすかにゆらめいている様子までをも感取することができる。このように見ると、まさに掲句からは、青畝の俳句表現における言葉そのものに対する細やかな配慮というものをそのまま見て取ることができよう。

平等院鳳凰堂は、京都の宇治にある寺院であり、永承7年(1052)に本堂が、そして翌年に鳳凰堂が建立された。鳳凰堂には、阿弥陀如来坐像が安置されている。

改めて掲句の内容を眺めてみると、「蛇」が「阿弥陀如来」の存在する「鳳凰堂」へと向かって泳いでいるわけであるが、ここにはそれこそユートピア的な世界への憧憬や希求が描かれているといえるように思われる。いくらか夢幻の相を帯びた雰囲気さえ感じられるが、また、ここからは青畝の作者としての主観の強さを見て取ることができよう。

思えば青畝の作品には、掲句のようなある種の理想郷ともいうべき世界を描出したものが少なくない。例えば〈さみだれのあまだればかり浮御堂〉〈なつかしの濁世の雨や涅槃像〉〈蟻地獄みな生きてゐる伽藍かな〉〈葛城の山懐に寝釈迦かな〉〈水澄みて金閣の金さしにけり〉〈雪解くる漏に笛吹く天女かな〉〈ひとすぢに天の戸明り鴨の海〉〈牡丹百ニ百三百門一つ〉〈山又山山櫻又山櫻〉など、いずれの句からも、それこそある限定された空間の内における楽土的な雰囲気が濃密に立ち籠めている感がある。

このように見ると、阿波野青畝という作者は、自らの俳句作品の上において「浄土的な世界」を現出させようとする指向性を多分に有した俳人であったといえるように思われる。

阿波野青畝(あわの せいほ)は、明治32年(1899)、奈良県生まれ。大正4年(1915)、「ホトトギス」の読者となり、原田濱人に師事。大正6年(1917)、高浜虚子に師事。昭和4年(1929)、「かつらぎ」創刊。昭和6年(1931)、『萬両』。昭和17年(1942)、『国原』。昭和22年(1947)、『定本青畝句集』。昭和27年(1952)、『春の鳶』。昭和37年(1962)、『紅葉の賀』。昭和47年(1972)、『甲子園』。昭和52年(1977)、『旅塵を払ふ』。昭和55年(1980)、『不勝簪』。昭和58年(1983)、『あなたこなた』。昭和61年(1986)、『除夜』。平成3年(1991)、『西湖』。平成4年(1992)、逝去(93歳)。平成5年(1993)、『宇宙』、『一九九三』。平成11年(1999)、『阿波野青畝全句集』。