平成14.6.30 富士見書房刊行
『飯島晴子全句集』より
誰かのエッセイで、料理が美味いだとか不味いだとか言うのは下品なことで、店内で美味いとか不味いとか言ってる奴は最低だ、みたいなことが書いてあるのを読んだことがある。
でもねぇ、それぐらいしか楽しみなんてないんだから、不味いはともかく、美味いってのは言ってもいいじゃない、と思う。
子どもの頃一番の御馳走は、福山(近くの一番大きな街)のそごう(馴染みのあるデパートと言えば)に連れて行ってもらい、そこで天丼を食べることだった。
デパートって、今はどうだか知らないけど、僕の子どもの頃はまだ特別感がありました。
その影響か、今でも天丼が大好きです。
『朱田』を読んでいきます。
墓地の霧はげしくつかふ父方や
父方は。
遅れて着く花粉まみれの人喰沼
晴子さんの「沼」は普通の「沼」ではなくて、人喰沼でないと合わないんだろううなぁと。合う、合わない、は句集においてとても大切なんだと思う。
はるばると蓬のさがる故人の手
たらん。
窓ひとついつも粗食の鶴がゐし
鶴に暴食なし。
鷺のくる家少年の鏡荒れ
何かが起こる、鏡から。
玉葱はいま深海に近づけり
古代の世界を覗きに行くように。
われをよぶ父よあかるく蛭とおよぎ
くねくねの。
小鳥来る薄き机をひからせて
清潔な机。
男らや真冬の琴をかき鳴らし
真冬にはあるハイテンション。
一月の長い谷底恋のごとく
入口だけ少し見えているけど、ほとんどが謎、そういう世界。
紅梅にかたいけむりを遣りにけり
遠い過去と現在が交差している感じが面白い。
火の中にゐる高齢の玉葱たち
よれよれの、玉葱たち。玉葱婆。
音もなく山を走れり星まつり
荒々しい時、精神が澄む。
鵜の海に青き着物のちから無く
鵜と青だけで不思議な世界になった。
紅梅をはたき幻てのひらに
ここに。
かの后鏡攻めにてみまかれり
目がぁー、目がぁー、というのはムスカ。
青麦のほかは何んにも見えない妻
どっちがいいんだろう。青麦だけ見え過ぎるのもそれはそれで。
孔子一行衣服で赭い梨を拭き
孔子一行がそこに居るかのような。ぞろぞろとその姿が見える
大洪水孔子は琴や敲きけん
句集で読むと、前に出てきた真冬の琴を、の句が思い出された。
栗いろにこころをあはせ上人たち
良いこころ、それは栗色。
ひきつづき身のそばにおく雪兎
可愛く切ない存在としての。
正体をくらましてゐる菠薐草
ですが、菠薐草。
落し水朝から琴を教へにゆく
琴、お好きですな。孔子の幻がちらつく。
秋の板しきりにたたき美童なる
たたくから敲く、秋の板から琴、孔子から美童、と行ったり来たりするイメージがちらつく仕組みがあるんじゃないかと思うと読み過ぎかな。晴子さんの句は句集で読むと様々な遊び心が隠されている気がする。
雪女けふもみどりの布団にゐる
けふも、ゐるのですな。
紅梅を横着に見て山に入る
へー、ほー、と。梅は本来そういうものなのかも。
海鳥やひとびとゆるく着物着て
着物が脱げてしまうと、海鳥になって飛んで行ってしまいそうな。そんな読みもしたくなる。
じゃ
ばーい