平成11.8.20 壱岐坂書房刊行
『篠田悌二郎選集』より。
噺家さんがこんなことを言っていました。
「落語を聴くと、江戸のことがわかるって仰る客さんが時々いらっしゃいますが、わかるわけないんだ、えぇ、わかりませんよ、別に」
ある歌舞伎役者さんが言ってました。
「勉強しようなんて思っていらっしゃるお客様が一番いけません、どうぞ、軽い気持ちで遊びにいらして下さい」
ただただ楽しむというのも大事だなと。
悌二郎さんの第二句集『青霧』を読んでいきます。
さびしくてならねば菊を買ひに出ぬ
「ならねば」が強い。男は最後には、菊か金魚に向かうような気がします。
秋桑を摘む音ばかり声もせぬ
「桑摘み」ではなく、秋桑です。下五にもう一押しの勇気があります。
めざめよき子なり芙蓉に抱きたつ
お利口さんな子。ちなみに娘さんのことを詠んだ句です、あぁ可愛い。
霜見ればおのれいとしみ手を揉める
霜見れば、すなわちもみもみ。寒いは辛い。
石蕗の日のあたたかければなまけゐる
毎日が日曜であれば良いのになぁ、なまけたし、なまけたし。漢字を使わないことによって、一句が日差しのようにも見える。
崎ゆきて青潮のうつ石蕗も見き
来て良かった。
枯蘆のそら夕映えぬすべもなし
悌二郎さんの下五の置き方が、今見ると斬新な感じがします。虚子の場合は添えるような感じですが、悌二郎俳句は一つ押す感じ。
松とりて夕焚きをれば笹鳴けり
静かな心。
尾羽あをき雉子うつべしや撃ちにけり
撃ってしまった感。句集には雉子の句が続きますが、どれも良いです、ぜひ全部読んでみて下さい。
息絶えて雉子ひとのごと眼つぶるを
あぁ、本当にごめん。撃ってごめん。
何もせぬ夕たのしさを雪ふり来
穏やかな時間は、美しい。この句も見ていると、心が落ち着いてくるような良さがあります。
秋櫻子が序文に「この集の初と終とでは格段の差を見出す」と記していますが、今回はその初めです。さて、悌二郎さんの句はどう変わっていくのか、じっくり読んで行きましょう。
じゃ
ばーい