帰郷の途中で書いてみたきりんのへや。盆も休まず偉いきりんなり

1951年三省堂発行 高濱虚子編『新歳時記』

今から尾道へ帰ります、五時起きですよ、まったくもう…。新幹線まで時間が少しあるのできりんのへやでも書こうかしらんと。

えーっと、鞄を探ると…、パンツ靴下、シャツ、勝負シャツ、勝負手拭い、扇、うーん…、ティッシュ、歳時記…、お!歳時記があるじゃないか!!

これやろう、これやろうっと、虚子編歳時記の八月の例句を引きます。

歳時記何買おうかな、二冊目の歳時記何買おうかな、初心者だけど何買おうかな

えぇ、はい、虚子編歳時記が良いんじゃないですかね、えぇ、こんなに面白い歳時記は他にないです、えぇ、はい。

解説が短い、例句がほのぼのとしている、古い句がたくさん、そもそも虚子の俳句が楽しい、などの理由で虚子編歳時記が一番好きです。

あとは初心者が持つと、ハッタリが効く(ような気がする)、ベテランが持っていると、何やら俳句の達人のような感じがする、僕が持っていると、敦姉さんや文姉さんや肖子さんが、ほほー、虚子編歳時記ですか、何やら偉いわね、とは別に言わないけれど、微笑ましく見てくれるような感じがなくもないような気がする、のも嬉しいところ。

無季の俳句は読む分には気にならないし、句が良ければかまわないと思ってますので、季語が無いと俳句でない、とは言わないけれど、作り手の僕にとっては季語がとっても素晴らしいものであって、僕の作る無季の句が僕の有季の句より面白くなりそうな気配が全くないので無季の句は作りません。うーむ、だからなんだという事もないけれど、無季の句を作る才能が無いんでしょうね、別にそれで困った事はないけれど…。

歳時記をぺらぺらめくると、その日の体調、機嫌、天候によって、いくつかの季語がきらきらと輝いて見えます、だからその光ってる季語を使って俳句を作れば良いわけで、僕にとっては歳時記が手元にあった方が俳句の出来が良いです。

さ、読んでいこうかね、あ、今新幹線乗りました、やった、座れました♪

手入して淋しくなりぬ秋の庭   よし

その繊細な心が愛しい

秋獲れて洟垂れ烏賊といふといふ   きゆう

そういうのがあったんでしょうね、うまいのかな…

初秋や軽き病に買ひ薬   虚子

心配してなさそうな感じが良い。

書了へて梶の葉におく小筆かな   京童

お、京童さん!小筆がにくいね、素晴らしいね

草市や隣の人の傘雫   更生

あの…、冷たいんですけど、の一言が言えない、あ、この句は別に濡れているわけじゃなあさそうだけど…。

家は皆杖に白髪の墓参り   芭蕉

そんなジジーになりたいな

止りゐる蛾美しや岐阜提灯   白桐

デカそう、蛾

盆の月寝たかと門を叩きけり   野坡

迷惑です

もちかへし線香花火のゆれてをる   虚子

なんてこう、力の入ってない、えぇ好きですよ、ゆれてをる、なんてそのまんま過ぎて素晴らしいじゃありませんか

此寺は庭一ぱいの芭蕉かな   芭蕉

自分の事好き過ぎて良し

ふー、例句が面白いって大事ですね、これ一冊で大袈裟でなくて一生遊べると思います。

そんじゃ、尾道に帰ります(今名古屋ぐらい)。

ばーい