かりそめの踊いつしかひたむきに   大木あまり

手をあげ足を踏み出してみた「かりそめ」の心から、
踊ることの狂気性にふれる「ひたむき」の心への静かな流れ。
その瞬間を捉えることができないという「いつしか」に、リアルな人間が見えてくる。
踊りの本質は自ら踊ることにあることは、阿波踊りの節を援用するまでもないが、
踊る人と未だ踊らざる人には、大いなる差があり、そしてそれは踊りに限ることではない。
「踊」というものの本質を捉えたと同時に、万物の本質を見せる重層的構造が巧みな一句。

『星涼』(ふらんす堂、2010)より。