カリスマお兄さん(『俳句評論第200号』、1983)

好きな小説家はたくさんいるけども、クラクラと夢中になってしまう作家と言えば、僕の場合は泉鏡花に夢野久作でした、人をクラクラとさせてしまう才と言うのが所謂カリスマなのかもしれませんね。

さてさて俳句においてはどうでしょう、僕の好きな作家は虚子や立子や、うーん、たくさんいるので敢えて書きません。

でもクラクラっとくるのは重信、赤黄男、白泉あたりですかね、これらの作家は、俳句はなんだか凄いぞ、カッコイイぞと僕に刷り込んでくれた大切な作家達です。

さてようやく本題、『俳句評論第200号』をこのたび読み返してみました。ちなみに200号は終刊号で重信の追悼号でもあります。

今回紹介したいのは「追悼・惜別の高柳重信」の中の折笠美秋の『荒ぶる』と言う題で書かれた追悼文に注目してみました。

いきなり冒頭から

 

ぼくは高柳重信を失った。

君は高柳重信を失った。

ぼくらは高柳重信を失った。

彼も高柳重信を失った。

彼等も高柳重信を失った。

しかし。

しかし、俳句形式をして、高柳重信を失わしめてはならない。断固として失わしめてはならない。


から始まる熱い文です、どこが良いかと言われれば、悲しんでるだけではなくて美秋のヤってやる!という意志が感じ取れるところです。

そもそも悲しむだけの俳人を重信が頼りにするわけはなく、さすが重信、さすが美秋、という文章になってます。

もうほんと、全文引用したいのだけど、それも色々マズイと思うし何より皆さんの楽しみを奪う事になりますから、図書館へ行ってなんとか原文を読んでみてください。

重信がどれだけのカリスマを持っていたかというのがよくわかるのが同じく『荒ぶる』の中の次の文章

 

高柳さんは、ぼくを「俳句評論」の発起人に加え、さらに編集委員の一人とした。

まだ学校に籍を置き、文学的野心いっぱいであったぼくは、これを機に、書きかけの小説を破り、エッセイのメモを捨て、現代詩の同人会を解散した。

 

どうです?重信も美秋もカッコいいじゃないですか! 何でもしてやりたいと思うのが良い兄貴でがむしゃらに何でもやるのが良い弟なのかもしれません、重信と美秋、美しい関係です。

僕は初めて大久保の俳句文学館に訪れた時、迷わず最初に読んだのは重信の『蕗子』でした、もうそれはクラクラしながら読み進めました。

平成21年に『高柳重信読本』(僕関係無いんだけど、全員買って!)が出る前に、どうしても読みたくて古本屋さんで無理して買った『高柳重信全句集』を鞄に入れてその鞄ごと抱きしめながら夢うつつで電車に乗ったのもよく覚えています。

 

僕は重信のような俳句は作らないし決して作れないけど、僕は重信が大好きです。僕はクラクラする作家が好きです。

できればこの『俳句評論』、俳句を始めたばかりの子達にも読んでもらいたい、そして、クラクラしてもらいたい。

(了)

 

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