2011年5月 田中亜美 × 津川絵理子

先月は四月号の二作品を扱ったので、今月は五月号の二作品。角川に限らず、この時期の各俳句総合誌の特集が震災一色に染まったことは、読者の方々もよく記憶されていることと思う。
俳壇の社会的な動きは、若手の作品にも如実に、いや、むしろ若手の作品にこそより如実に現れていたように思う。

田中亜美の「先手先手」と題された短文。原発の事故に対する恐怖と怒りを、チェルノブイリの原発事故後のヨーロッパでの旅を思い返しながら記している。「西日本へ逃げた」と語る作者は、そして「多少過剰であっても先手先手で危機を予測することが、求められているのではないか」と読者に投げかける。
「求められている」という、まさにそのことには僕も共感する。しかし同時に、危機を予測することの難しさを思ってしまう。人間は本当に危機を予測し、それを回避することができるのだろうか。
たとえば、チャペックの戯曲『ロボット』はロボットがもたらす人類の滅亡を描いている。1920年に出版されたこの戯曲に描かれた未来は、時の流れと共に少しずつ現実味を増してきているようだけれど、そしてそのことに怖れを抱かないこともないけれど、それでも『ロボット』のようなことが現実になるのは――ひょっとしてそう遠くない未来のことだったとしても――まだまだ先のことのように思えてしまう。鮮明な実感は現在だけにあって、未来は常に切迫感を持たないフィクションでしかないように感じる。
「もし東京で大規模直下型地震が起きたら」といったことが、しばしばテレビの娯楽番組で特集として語られ、視聴者がそれらをひとつのSFとして観ていたのはそう遠くない昔だけれど、そのころのそうした番組は、東北での地震に対する東京の人々の対応をよりよいものに変えただろうか。あるいはいつか本当に来るだろう大規模直下型地震の後の東京を変えることに繋がっているだろうか。規模は大きかったとはいえ東京では建物の倒壊も数えるほどだった今回の地震でも、東京では――原発のことは抜きにしても――やはりある程度のパニックが起こったし、電車はなかなか動かなかった。そんなひとしきりの混乱が終わると、東京の人々は、今度はけろっとした風に、普通の生活をはじめ、気温の上昇とともに今となっては節電で冷房を効かせられないことばかり言っている。人間はたしかに過去や未来の概念を持ってはいるけれど、しかしその思考は本質的には現在という視座から離れることが出来ない。

「白刃」と題された二十句の作品もまた、原発の危機がもたらす「未来」よりはむしろ、原発がいましも直接の被害をもたらしてくるかもしれないという、「現在」そのものの不安を映し出す作品であったように思う。

  風光る風と光に脅えては     田中亜美

この冒頭の一句に現れている、「現在」に対する脅えが、この連作においては重奏低音のように響き渡っている。あの三月には多くの人が世界をなにかこれまでと違ったものとして認識しなおしたのではないかと思うけれど、作者にとってそれは脅えとして受け止められたのだろう。「風光る」という詩の世界に飼いならされていたはずの言葉が、「現在」の立場からは全く違って見えたということ。これは、その素直な表明だ。

また、この連作の後半にも「風」の句が二句続く。

  劫末の末黒野として風光る     同

  アネモネは風を待つ花紅くなる

劫末――仏教の言葉で、この世の終わりを意味する言葉。作者はニュース映像に煙をあげる原子炉建屋のありさまから、原子力発電所の臨界を想像したのだろう。この世の終わりの焼け野原を風と閃光が駆け抜けていく。「風光る」の言葉がこの連作の中で従来の季語としての意味から離れ、独自の力を持って迫ってくる。

アネモネはそもそも言葉として、ギリシャ語のアネモス、すなわち「風」を語源としていて、あえて訳せば「風の花」となる。一説には、風が吹くと花が咲き、もう一度風が吹くと散ってしまうような儚い花だからだという。そしてその花言葉は「あなたを信じて待つ」。「アネモネは風を待つ花」というのは、このふたつのことを一つに結びつけて想像された言葉なのだろう。そして、赤いアネモネは古くから血と結び付けられてきた。ギリシャ神話では猪に殺されてしまった青年アドニスの血に咲いた花として登場するほか、キリスト教ではイエスの血を表象する花と考えられている。「アネモネは風を待つ花」というロマンチックな言葉からは恋心を連想することもできるけれど、この句にもただならない不安が隠されている。この紅は恋によってはにかんだ紅潮などではなく、散ること、死ぬこと、滅びることの象徴なのだ。

作者はしかし、絶望しない。むしろ生きることを強く望んでいるから、こんな涙を流すのだろう。

  夕ざくら湯気の立つもの食うて泣く     同

今を精一杯に生きようとして、ものを食べたときに流れた涙に、この人の強さを見る思いがした。

田中亜美の文章や俳句が、震災詠として直接にメッセージ性を持とうとしているのに対して、津川絵理子の「思い出すこと」と題された短文は、今回の震災に対してなにかを発言しているわけではない。ただ、今回の震災のことで思い出された阪神大震災のときの作者自らの経験を語り、「当時の経験を句にする気持ちには未だになれないけれど、俳句がいつも傍にあったことを有り難く思う。」と述べる。その言葉から予想される通り、「蝶生る」と題された二十句もまた、震災について直接に何かを語ろうとするものではない。

  紅梅や満開の蘂こそばゆし     津川絵理子

  鶯笛まづ頓狂なこゑを出す

紅梅のあの長めの蘂が、そよ風に吹かれてか、互いに触れ合う。春の穏やかな日差しさえ感じられる詠みぶりだ。「紅梅や」と一度句を切ってから「満開の蘂……」と続くあたり、盛んにあざやかに咲く紅梅の姿を思い起こさせる。そこへ「こそばゆし」とやわらかくくずしたひらがながきて、あたたかいものに包まれたような気分にさせてくれる。

鶯笛――残念ながら僕は手に取ったことがないのだけれど、なかなか息遣いにコツが要りそうな笛だと思う。ほんものの鶯も、最初の頃は巧く鳴けずに頓狂なことになっているのを耳にすることがあるけれど、あんな感じだろうか。だれかもっと上手に吹ける人に手渡されて、ちょっと困惑しながら吹いてみたら変な音がでてしまったような、そういう小さな物語も見えてくる句だと思う。

田中亜美の二十句と比べると、この作者の二十句は、世界に対する屈託のない肯定感に満ちあふれている。ただし、それは虚子が「極楽の文学」と称したような、表現を現実から乖離させようとする詩のはたらきによるものとは違った何かであるようだ。

  人数の揃わぬ試合春の草     同

野球かサッカーか、なんだかは分からないけれど、とにかく健やかな遊びとしてのスポーツのありかたを象徴的に描いているように思う。「春の草」という季語をおいたことによって見えてくるのは、「人数」という縛りにこだわらない健やかさではないだろうか。

この連作に表れている、世界に対する肯定感は、現実のなかにある理想的なものに見出されるのではなく、まさしく現実のなかにある現実的なものに見出される。「こそばゆ」かったり、「頓狂」だったり、「揃わぬ」ものであったりすること、それ自体に対する肯定が、ここにはある。
しかし一方で、「極楽」的ではない現実をありのままに描いているからといって、それをいわゆる「わび」や「さび」と同列のものとみなすのは早計だろう。従来の俳句的な「わび」や「さび」というのは、憂き世に対する痩せ我慢だったり、そうでなければ浮き世に対する斜に構えた感じだったりが少なからずあるように思えるけれど、この作者の作品は、いい意味で、もっと天然だと思うのだ。

  行く春の砂つけている犬の鼻     同

カッコよく存在しきれないありのままを、どうしようもなくいとおしむ心が、句の言葉にまで染みわたっている。

最後に、二人の作品に触れたことで感じたことを書こう。俳句に限らず、この時期、表現者は、差し迫った思いから震災に対して自分の感じたことを強く強く響かせようとするか、そうでなければ、こちらもまた正当な配慮から震災に対して慎み深い沈黙を守るか、ほとんどそのどちらかに二極化した。ここで見た二人の作品にはその二つの向きがはっきりと見て取れる。この文章の冒頭で、俳壇の社会的な動きは若手の作品にこそ如実に表れたように思うと書いたのは、そういうこともあってのことだ。もちろん、僕もまたこの時期に作品を書いて公にした一人として、客観的な立場にない以上、個々の表現者たちの営為に関してその観点から是非を語るつもりはないし、もし、そんなことを語れと言われても、はっきり言って、どうすることがいちばん良かったのか、今でも分からない。だけれど、いまになって、あのとき、どうしてこの二択を求められているような気がしたのだろう、と思う。日常と非日常とが明確な境界なく混在しているのが世界のありようだというのに、どうして僕たちは、日常と非日常との区別をせず無頓着に語ることを出来なかったのだろうか。震災に対して、何かしら明快な姿勢を示すことが、なぜ避けられないことのように思われたのか。

こんなことを投げかけるのは、そこに表現という制度が宿命的に持っているひとつの大きな欠点を見る思いがするからだ。およそあらゆる表現は広い意味で「ことば」から出来ている。それが表現である以上、記号としてどんなに意味を剥奪しようとしても、そこに意味が生まれてしまう。「ことば」であることをどんなに避けようとしても、それは「ことば」になってしまうのだ。そして「ことば」は差異の顕在化を本質としている。「みかん」と「オレンジ」と「ポンカン」を区別しただけでは足りず、さらにそこに「有田みかん」と「愛媛みかん」を見出した上、「愛媛みかんでも○○みかんは××みかんに比べて甘みが強くて香りもいい」とかいうことを人間に言わせようとするのが「ことば」の本質だ。だから、僕たちは、表現を受信し、また発信する過程で、知らず知らずのうちに、半ば「ことば」に振り回されるようなかたちで、日常と非日常を差別化してしまったのだろう。「ことば」を使うことでしか表現できない僕たちは、本質的にそれらを差別化せずにいられない。それでも日常と非日常とが綯い交ぜになった世界のありようを顕在化させることに挑もうとするとき、次に僕たちにできるせめてものことは、この二つを相対的なものとして捉えなおすことだろう。どちらかがどちらかに対して優位に立ってしまわないようにすることだ。白と黒とを明確に区切りながらも、そのどちらが主題でどちらが背景なのかをはっきりさせてしまわないこと――もっと言えば、そのどちらもが主題であり、そのどちらもが背景であるようなものを編み出すことだ。ちょうど、壺の絵とも向き合う顔の絵とも見て取れる、あの「ルビンの壺」のように。

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