2011年9月 杉田菜穂 × 村上鞆彦

今回は作品を見ていく前に、マイペースということについて、すこしだけ書こうと思う。
高校一年のとき、僕の担任の先生が、四月の最初の保護者会の中でお母さん方に「お子さんの長所を教えてください」と尋ねたところ、「マイペースなところです」という答えがいくつも返ってきたのに対して、先生がふと「マイペースっていうのは、長所なんでしょうか……」と呟いたという話を、いつか母に聞かされたことがあった。なるほど生徒が揃いも揃ってみんなマイペースだったら担任の先生は大変だということはまあそれとしても、たしかに実生活では、いつもいつもマイペースというのは困りものだろう――自分を棚に上げていうのも難だけれど。たとえ僕らがいくらマイペースに生きようとしても、授業は毎日定刻どおりに始まるし、バスは待ってはくれないし、原稿には締め切りがあるし、カップヌードルはあんまり放っておくとのびてしまうし。
だけど、一方で、ほとんどのものごとっていうのは、一概にいいとかわるいとか決めつけられるものでもないんじゃないだろうかと、漠然とそんなことも考えたりするのだ。

さて、それでは俳句の話。
杉田菜穂は「ひたむきに」と題された文章において、時を経るにつれて輝きを増すような句を志す自身にとって、「当面の課題は、師系と向き合う過程のなかに自らの個性を見出すこと」だと語っている。ちょっと、しりごみする。それは、僕個人がいまだ「師系」という概念にたいして明確なイメージを持つことができずにいるからかもしれない。よくわからないけれど、たしかにそれは存在していて、見通しの悪い道を歩いているときに、ときどき、おいでおいでをしてきたり、あるいは追いかけてきたりする。僕にとって「師系」というのは、まだ、そういう、なんだかちょっとおばけじみたものとして感じ取られてならないのだ。それだけに、「師系」と積極的に向き合っていこうとしています、という言説には、ちょっと、しりごみしてしまう。それだから、この言葉の直後に置かれた「ともあれ、ひたむきに創り続けたい」という言葉に、僕はこれほどまでに安心するのだろう。そのひたむきさは、「師系」というなにかものものしいものとは無関係に、作家の気質としてあるだろうものだからだ。そしてその作品「ひょんの笛」は、「師系」という名のかたちを持たないおばけの具現としてよりはずっと、そうしたひとりの作家の感受性に強く依存したものとして編まれているように思う。

  ふるさとに忘れて来たる夏帽子     杉田菜穂

モチーフからは、寺山修司の「わが夏帽どこまで転べども故郷」が連想される。ただ、寺山の句の「故郷」が、もはや自分の居場所ではなくなってしまった土地として、なにかしらの疎外感を覚えさせるのに対して、この句の「ふるさと」はいつだって立ち返ることが出来る根っこのようなイメージだ。だから、そこには安心して「夏帽子」を忘れてくることが出来る。

  蜜豆を食ふよく笑う者同士     同

蜜豆を食べながら、笑いあえるということのしあわせ。この作者の句の作り方が、作者自身の日常の一コマを描きだす手法なのは「私の第一句集『夏帽子』を読んだ同僚が、「アルバムを見ているよう」と言ってくれた」という作者自身の言葉からしてもおそらくそうなのだろうけれど、ただ、リアルであると同時にどこか童話的な感じもする。
この感覚は、日本のサブカルチャー研究において「空気系」と称されているいくつかのマンガ作品に近いかもしれない。僕自身は、マンガのほうは、たまたま部室においてあると手にとって読んでみるといった程度だから、ひょっとするとぜんぜん当てはずれかもしれないのだけれど、あずまきよひこ『あずまんが大王』とか、小箱とたん『スケッチブック』とか、作中人物の日常の空気感を売りにした四コマ作品の感じ。それらの作品に描かれる「日常」は、リアリズムが希求するような生々しい現実を描くにしてはファンタジックに造形されたキャラクターたちによって演じられる「日常」、つまり、非現実的でどこかふわふわした「日常」の感覚なのだ。その「日常」が読者に日常として認識されるために、作者は自分の日常の体験を、ときに登場人物たちに演じさせているようにも見える。
これ以上やるとマンガ論になってしまう。話を俳句のほうに戻そう。何を言いたいのかというと、この連作は、現実を下敷きにしながらも、従来の俳句的なリアリズムとは大きく異なった手法で、作品を紡いでいる、ということだ。

  青色と言はずに露草の色と     同

この連作には、格助詞で終わる句が五句ある。これは俳句の連作としてはかなり多いほうで、たとえば後に触れる村上鞆彦「影ひとつ」には、この終わり方の句は一句もない。これは、文が終わらない終わり方なのだ。
そして、この言葉の流し方にも、「空気系」の感じがある。「空気系」の四コママンガには、四コマ目でとくにオチがつかないということが、けっこうあるのだ。オチない四コママンガと、切れない俳句とのあいだには、なにか様式として似たものを感じる。
そもそもこの句の言っていること自体は、そうとうファンタジックだ。でも、この句では、それがどこか日常に存在する出来事として感じられる。それは、まさしくこの言葉の流し方のお蔭なのではないかと思う。

  水澄むや校舎の下にある遺跡     同

「校舎の下に遺跡あり」だったら、場合によっては事実だ、あるいはリアルだといえる。それが「校舎の下にある遺跡」だと、ファンタジーになる。
校舎の下にある以上、それは今は誰にも見えないはずだ。だから、その遺跡がどんな形をしているのか、どんなもので出来ているのか、そもそも何の遺跡なのか、実物を見たり、触ったりして感じることは出来ない。校舎の下に遺跡があることを聞いたり読んだりしてそこから何かを感じることはリアルにありえても、校舎の下に実際に眠っている遺跡そのものから何かを感じ取ることは出来ないはずだ。だけど、この作者はまるでそれを今まさにしているかのように語る。だから、僕らがこの句を読んだときには、出来るはずのない体験を「追」体験するという、とても不思議なことが起こる。

村上鞆彦の「77歩」と題された短文には、「ダイニングバー○○ 77歩後ろ」という張り紙を見た作者が、「その77という妙に具体的な数字が気になったので、後ろを振り返ってそのまま真直ぐ歩いてみたところ、なんとちょうど77歩でその店のドアの前に辿りついた」という体験が語られる。作者は「偶然に、思わず嬉しくなった」という。それは、作者自身は特に触れていないけれど「77」がラッキーセブンの二つ重なる縁起のいい数字であるせいもあるだろうか。
とにかくそうした「生活のなかのささやかな発見を肩肘張らず素直に詠ってゆければと思っている」と作者は語っている。ここでは、「発見」がキーワードだろう。そこが、ここまでみてきた「ひょんの笛」のようなファンタジックな「日常」性の句とはちがった世界を、「影ひとつ」と題された作品の上に現出させているように感じられる。

  松の影ゆれて松風蟻の道     村上鞆彦

松の影をゆらして松風が自分のところまで吹いてくるという映像的な描写と、松の影がゆれることが風を「松風」たらしめるのだという発見と、その両者がともに感じられる。そして「蟻の道」がその松の木と自分とを取り巻く景色のなかに、いかにも自然に入り込んでいる。
ところで、この連作の中には、「影」という言葉の入った句が三句ある。そのどれもが、その「影」という言葉のもたらしてくれる、映像的な写実のありかたと、ある「発見」とを両立している。「発見」は、その字の通り、眼で見たものに対する気づきの感覚というのが、原義的にある。人間というのは、基本的には眼で見て気づくことの多い動物なんだろう。だから、「発見」を志向する作者の作品は、否応無しに視覚的になる。

  髪切って幼くなりぬ宵祭     同

髪を短く切ったら、顔の見た目がなんだかちいさかったころみたいになってしまったという感じ、よく分かる。「幼くなりぬ」というなんだかしみじみとした感慨をもった言い方に、やはり発見が見て取れる。この句はさらに「幼くな」るという比喩的な言葉の幻想的な雰囲気を「宵祭」という季語に引き継がせることで、祭りのときの、心まで童心に帰っていくような気分をほんのりと感じさせてくれる。あるいは、髪を切るという行為自体が、どこか子供時代の経験を喚起させるところがあるのかもしれない。
童心、ということでいえば、次のこの句も。

  草笛は夕日の曲や夕日落つ     同

「夕日落つ」という言葉の落としどころが鮮やかだ。草笛で吹く夕日の曲というだけで、「夕焼け小焼け」とか、「赤とんぼ」といった、いくつかの童謡のメロディーが想像される。とても省略が効いていて、しかもその抽象化のあり方が詩的だ。曲から想像される夕日と、現実の夕日とがぴったりと重なり合う感覚、その幸福で充足した感覚が、この句の「夕日」という言葉の繰り返しとそれがもたらす語調のよさによって、じんわりと感じられる。

  山椒魚動くと決めてから動く     同

これはきっと、山椒魚のなかでも、トウキョウサンショウウオみたいな小さいやつではなくて、天然記念物でもある、あのオオサンショウウオのイメージだ。「動くと決めてから動く」というのったりした感じが、あの巨大な両生類の存在のありようをしっかりと質量を持って描き出している。
「夕日」の句とこの句とは、繰り返しがもたらす語調のよさが効果的であるという点では一見すると似ているようだけれど、その効果の発揮のされ方が全く異なっている。こちらの句の繰り返しは、いわば「くどくどしさ」の演出――すなわち、実際には語調の面から言っても、意味の面からいっても、くどくなんてないのだが、見た目の上ではくどい述べ方に擬態しているということ――であって、一見持って回ったような描き方が、まさに山椒魚の重く鈍い、持って回った動きを思わせるというまさにそのことで、山椒魚そのもののあり方を生々しく読み手に喚起させるのだ。

それでは結びに、マイペースということについて、ふたたび。
結論としては、とりわけ俳句をつくるということにおいて、マイペースっていうのは、長所だと僕は思う。いちおう断っておくならば、もちろん、締め切りなんて守らなくていいとか、そういう意味ではなくて、自分や自分を取り巻く環境が刻々と変わっていくなかで、にもかかわらず自分のやりようをはっきりと心得ていて、それをその通りに実現できるというのは、書き手として、れっきとした長所だと思う、ということだ。そして今回取り上げた二人の作家は、それぞれにそうしたところをもっている。連作の中で、それぞれに向き合っている現実は一句一句で違っていて、でも、自分らしいと感じられる、ある一貫した表現の方法を、その中で繰り返し繰り返ししながら、自分の世界を更新しつづけている。それは、あるマイペースさを持っていなければ、出来ないことだ。その気質を「ひたむき」さといったり、「マイペース」さといったりは、いろいろ出来るだろうけれど、とにかくそれは、その作り手のオリジナリティーとして作品に表れて、その作品を魅力的なものにするに、違いない。