2011年10月 大谷弘至 × 篠崎央子

 僕には最近気になっていることがある。いや、いろいろとあるのだけど、そのうちのひとつが、僕の俳句にとって、僕はいったいなんなんだろう、ということだ。作り手だろう、と、ある人は言うかもしれない。作者→作品。けれど、その認識は本当に正しいのだろうか。
 作品が作者を作ってしまう、ということがあるように思う。なにも、作者←作品、ということではなく、作者⇔作品ということだ。作者と作品とは相互に依存しているのではないだろうか。

 大谷弘至は「一茶」と題された短文で、一茶の<春立つや愚の上に又愚にかへる>の句に、「「愚」に徹しようとする強い意志」を感じ取り、「いつかは一茶のような句を詠めるようになりたい」と書く。「愚の上に又愚にかへる」というのは抽象的な言い方だから、それは一茶自身のあるおこないについてのことではなく、さまざまなおこないについてまとめて、その普遍なところを描きだそうとしている言い方だ。だからそれは結果として俳句を詠むというおこないについても、あてはまる。
 ところで、僕は近世の俳諧について、正直なところ充分な知識を持ち合わせてはいないから、もし近世の俳人を三人挙げるとすれば、やはり深い考えもなしに芭蕉、蕪村、一茶の三人を挙げることになるのだけれど、たとえば、この三人のなかで、作品における「我」について――それが明治以降の文学において盛んに言われることになる自我の問題とは厳密には異なるものだろうということはひとまず忘れてほしい――もっとも意識的だったのは一茶だろう。<我と来て遊べや親のない雀>や<目出度さも中位なりおらが春>、あるいは<痩蛙まけるな一茶是にあり>といった一茶の句に現れている「我」、「おら」、「一茶」はそれぞれの句の組み合わせによってひとつの人格を結晶している。とはいえ、その人格は本当に作り手の一茶その人そのものだったのだろうかと問いかけられれば、答えようがない。普段なら、そんなことはどうでもいいというようなことなのだけれど、このことが今、僕には重要に感じられる。別段「我」という言葉を使わなくても俳句として詠まれる言葉にはすべて語り手が存在していて、その語り手の性格は、認識としては、ひとつの作品ごとに個別に揺るぎなく存在しているというよりはむしろ、いくつもの作品の集合からモンタージュのように構成されるもののように思う。そして、おそらく作り手は、自分自身の作品からもっとも強い影響を受ける。とすれば、自分の中の「愚」を取り出して積み上げてみせた一茶は、そのことによって「愚」な語り手としての「我」を再構成し、そうして作り上げたはずのイメージに今度は縛られることになるのではないだろうか。「愚の上に又愚にかへる」という言葉は、なんだかそうしたことを言っているような気がする。

  七月の終はりゆく日の氷旗     大谷弘至

 それにしても僕はいったい、この句に何をつけくわえればいいんだろう。こういう句に対してはどんな評もおおよそ野暮ったいものになると思うのだけど――
 もし、こういう言い方が許されるなら、この句はロイ・リキテンスタインの描いた、コミックの写しのようなものだ。リキテンスタインの描く構図は確かに感動的だけど、それは元になっているコミックからの借り物にすぎない。じゃあどうしてリキテンスタインの絵がポップ・アートとして独自の価値をもつのかと聞かれれば――人によって意見は違うだろうけれど――それはそのコミックに備わっていた前後の文脈を捨てることで、内容をまさしくその描かれた表面に限定したからだ。この句もそれと同じように、季語のやや過剰とも思える盛り込みによって、ありがちな意味深さを捨て、書かれた言葉のうちに世界を完結させてしまっている。「謂ひおほせて何かある」とは芭蕉の言葉だけれど、もはや言いおおせて何もないことが俳句にとって汚点となる時代でもないのだろう、とそんなことを思ったりした。

  蚊柱の中をさまよふ蚊が一つ     同

 人間の五感というのは不思議に出来ていて、ひとつのものごとをとらえようとすると、他のものごとに対する反応が鈍くなる。映画でもドラマでもいいのだけれど、主人公がたくさんの人々をかきわけて進んでいくのを、上からカメラで小さく映しながら追っていっているようなシーンを見たことはないだろうか。そうしたシーンを見るとき、人間は普通、主人公以外の人間を「群衆」というひとかたまりの背景として捉える。しかし、上空から映してしまえば、スターもエキストラも見た目には大差ない。それでも、観客の目がスターを追うのは、スターがカメラに追われているからにすぎない。人間でさえそうなのだから、蚊ともなればなおさらだ。たまたまその蚊を目で追っているから、その蚊が蚊柱から浮き立って見える。言葉そのものが、そうした語り手の認識を浮かび上がらせている。

  どこまでも流れて星の燃えきらず     同

 この句は、上の二句と比べるとぐっと観念的なつくりになっている。この句の詠もうとしていることは、永遠とか永久とかいう類のものだ。永遠に輝き続けることは、人間にとって典型的な欲望かもしれない。だから、どこまでも流れて燃えきらない星に、憧れをもってしまうこともあるだろう。けれど、それは、星であれば、同時に永遠に身を焼き続ける炎の中で苦しむことでもある。燃えながらいつまでもどこまでも流れ続ける星は、いつまでも成仏できない人魂のように、悲痛な光を放ち続けているように感じられた。

 篠崎央子は「新しい自分」と題された短文の中で、「季語である景物の起こす現象や在りようが私自身とシンクロしたときに言葉が浮かび上がり俳句となる」と俳句と自分自身との関係性について述べたうえで、「俳句を詠んだ分だけ新しい自分に出会えると信じている」と語る。今、僕にとって気になるのは、くどいようだけれど、作品というかたちで自分の外に立ち現れたこの「新しい自分」はその後どうなるのか、ということだ。「新しい自分」はその作品の中で永遠に、本来の自分とは切り離された存在でありつづけるのか、それとも、「新しい自分」は自分の中へと入り込んできて、主観の一部を担うことになるのか。

  横顔のままの子鹿や風のなか     篠崎央子

 「横顔のままの子鹿」に作者は自分の何を重ね合わせるのだろう。この句の語り手は「横顔のままの子鹿」を傍から眺めているようだけれど、同時に夏の季語である「子鹿」とシンクロして風を体感しているかのようだ。
 さて、女性が子鹿に自らを重ね合わせるという構造から、僕にはどうしてもフリーダ・カーロの『小さな鹿』が思い出される。何本もの矢が刺さった鹿が駆けている絵。その鹿の顔がフリーダ自身の顔なのだ。あるいは、鹿の顔を詠んだ句には小室善弘の<撃たれたる鹿青年の顔を持つ>がある。やはり撃たれている。
 もちろん掲句の鹿は撃たれていない。しかし「横顔のままの子鹿」は、なにかひどく傷つきやすいセンチメンタルさを持っているのではないだろうか。

  壊れたるテレビとちちろ暮らしけり     同

 ちちろ、とはマツムシのこと。秋の野原に壊れたテレビが捨てられていて――おそらくは古い箱型のテレビだろう――その割れてしまった画面の中と外とを出入りしながら、ちんちろりん、ちんちろりんと鳴くマツムシ。「暮らしけり」の擬人化に、作者とマツムシとの交感がある。
 壊れたテレビとの暮らしは、けっして物質的に豊かなものではないだろう。けれど、見た目も中身も違うのに自然と惹かれあうような相手と、たまたま出会って、同じ時間、同じ空間を共有するということは、それだけでとても幸せなことだと思う。

  きのこみな宙から降つてきたやうな     同

 きのこは、なるほど、いわれてみると、おおよそ地球内生物とは思えないようなかたちをしている。エノキなんか、あおっちろくて、頭でっかちでひょろっと足が生えてるところなんか、まるでH.G.ウェルズの想像した火星人のようだ。
 もちろん、きのこにファンタジーを見出すことそれ自体は、なにも新しいことではない。ルイス・キャロルの作品の挿絵にはだいたい赤い傘のきのこが描かれているし、卑近な例で言えば、チョコレート菓子の「きのこの山」なんかも、きのこの姿かたちからファンタジーを作り出している一例だろう。あとは、きのこの怪物が人間を襲う『マタンゴ』なんていう映画もある。
 しかし、きのこが空から飛来してきた生き物のようだ、というように、素朴なファンタジーを感じさせる描き方は、これまでなかなかなかったのではないだろうか。
それ以上のことを言わなかったことは、この句の良さだろう。「ような」によって、フィクションにいくギリギリのところで現実に帰ってくると同時に、そこに語り手の主観を見ることが出来る。この作り手と不可分なものとして意識される語り手の感性が、句を作ることで作者自身にもはじめて見出されるとき、それこそが「新しい自分」との出会いなのだろう。

 で、やはり僕の中で気になるのは、「新しい自分」が自分自身を更新していくということと、自分自身が「新しい自分」を更新していくということの問題だ。それは、僕が作ったはずの僕に今度は僕自身が動かされてしまうことの問題と言い換えることが出来る。僕は近世の俳諧ばかりでなく、社会学についても、充分な知識を持ち合わせてはいないから、生半可な知識にもとづく引用になるけれど、これは、社会学者の大澤真幸の言葉を借りれば、「アイロニカルな没入」ということになるのだろう。アイロニカルな没入というのは、分かりやすく言えば、自分は心から信じてなどいない(=アイロニカルに捉えている)幻想に対して、その幻想を信じている誰かの存在を意識するなどして、その幻想に価値を見出した結果、それをあたかも信じているかのように行動してしまう態度のこと。作品に見出される新しい僕は、僕とは違うけれど、その新しい僕をあるいは僕そのものだと思う読み手の存在を意識したりすることで、その新しい僕に価値を見出した結果、僕自身が新しい僕を演じてしまうとき、それはアイロニカルな没入といえるというわけだ。このアイロニカルな没入は、しかし、ときとしてその維持のために他者に対する暴力を発生する危険性を持っていた。社会学の議論においては、その代表的な一例として、オウム真理教による無差別テロが挙げられている。
 このような問題を抱えたことで社会的には破綻せざるを得なかったアイロニカルな没入の、一歩先のあり方として宇野常寛が分析したのが「アーキテクチュアルな没入」という態度だ。このアーキテクチュアルな没入というのは、確固としてある構造的な土台となるシステム(=アーキテクチャ)の上に島宇宙的に存在している多様な価値観の中で、究極的には無根拠であることを織り込み済みに、あえて自分が信じたいものを信じる、という決断的な態度のこと。自分自身でそれを信じているという点、そしてそれを決断的に選び取る点がアイロニカルな没入との大きな差だ。これを作品における自我に対する態度として考え直すならば、それは、自己という肉体的かつ精神的な構造に宿る自分らしさなんてものは多岐にわたっていて、その限りにおいて絶対的な自分らしさなどというものはおそらく存在しないのだろうけれど、そういうことを承知の上で、あえて、自分がそうありたいものとしての自分を描き出す、という態度だろう。俳句におけるアーキテクチュアルな没入のあり方の例は、たとえば池田澄子の<先生が死んでおられる冬麗 嫌だ>に見て取ることが出来る。池田澄子はこの句の完成に至るまでの過程で、「先生が死んでおられる冬麗」と詠むという自分らしさを可能的には選択できたはずだ。けれど、最終的にそれを「嫌だ」と拒絶することで、自分の信じる自分らしさを描き出すことに成功している――あるいは作り上げられた世界を最終的に拒絶するという構図は、オタクによるアイロニカルな没入への批判を内包していた「新世紀エヴァンゲリオン」の旧劇場版のラストにおいて、ヒロインであるアスカから主人公のシンジに向けて発せられた、「キモチワルイ」の一言とも通じるものがあるかもしれないけれど。――とにかく、この句はまさに自分が信じる自分らしさを選択して描き出す態度の表れとして高く評価することができる。
 ところで、宇野は社会思想の分析の立場から、このアーキテクチュアルな没入の構図をふまえて、個別の価値観をもった人々の集まりであるために必然的に閉塞し、場合によっては「バトル・ロワイアル」的な暴力の発現をもたらしてしまうそれぞれの小さなコミュニティを、コミュニケーションの力で押し開くことが重要だと考えているようだ。そして、このコミュニケーションを、現代社会に広まっているゲーム化されたシステムに求めている。
 コミュニケーションツールとなりうるゲーム化されたシステム――俳句や句会をそうしたものとして捉えるのが、たとえば千野帽子の考え方なのだろう。自分がそうありたい存在としての「俳句の外の人」という自分らしさをあえて選び取り、ゲーム化されたシステムとして俳句を捉えた上で「俳句の中の人」という仮想敵と対峙する、千野帽子の手法は良くも悪くも驚くほど宇野常寛的なのだ。「中の人」とのコミュニケーションを拒絶しているようにも思われる態度は、宇野常寛的なコミュニケーション形成志向のあり方とは一線を画すのかもしれないけれど。

 さて、僕自身の書きたいことをあらいざらい書こうとしてあまりにも脱線してしまった――そもそも鑑賞よりも短文から見出された問題が膨らんでしまったあたり、文章全体が脱線している。結論を急ぎたい。
 結局、僕が何者であるか、ということについて、僕が考えることが正しいかどうかなんて分からない。ただ、ひとつ言えることは、僕が何者であるかという問いについて、考えてくれる都合のいい誰かがきっといてくれるだろうなんていう甘い考えをするべきではないということだ。少なくとも僕は、そう思う。