雨ながら浮巣見たくて付いてゆく  児玉輝代

雨が降っている。けれど、浮巣が見たいので、ついてゆく。「浮巣を見に行くよ」というひとがいたのだろう。雨の日で水がふえている日の浮巣は、どうなっているだろう。それを覗いてみたいと言う、ちょっと無責任な欲望もある。
この句、意外と「付いてゆく」がミソ。「雨ながら浮巣見たくて」見に行く、というのだと、さすが俳人、雨ももろともせず、という簡単な決意表明になる。でも、「付いてゆく」によって、不思議な俳句になった。雨にけむる景色の中、誰かの後ろ姿を追いながら、ぼんやりと歩いてゆく。その、自分で目指しているわけではない、ぼんやり感が、雨で奪われた視界とあいまって、ちょっとだけ幻想的だ。

つい、「付いてゆく」。そんなふうにして、私たちはどこかからどこかへ歩いてゆくのだと思う。

俳句同人誌「家」2011年9月号より。

翌月の「家」10号の表紙に、「代表 加藤かな文」とあるので、かな文さんにバトンが渡されたんだ、と思った。表紙の文字の色がふかいブルーだったので、ちょっと静かな雰囲気だな、と思いながらページを繰ると、冒頭に、弔辞が掲載されていた。児玉輝代さんが逝去されたことを知った。この句は、9月号を読んだときも心にとまったのだけれど、弔辞の中で最後の作品として紹介されていた10句を読んでも、やはりこれだな、と思った。
かな文さんは弔辞のなかで、感謝のことばを述べたあと「いつか先生以上に俳句を愛する俳人になる」と誓った。児玉さんは、俳句を愛していた人なのだと思った。だから、「雨ながら」ついてゆくのだ。