2011年4月 髙柳克弘 × 鴇田智哉

角川『俳句』の新鋭俳人20句競詠には、二十句の作品と、それとは別に作者による短文が掲載されている。もちろん、文章は文章、俳句は俳句で独立したものだけれども、その二つが、こうして同じページに掲載されている以上、僕にはふたつをあまり遠くに置いて考えることが出来ない。だから、この記事を書くにあたっては、文章と俳句と、そしてもちろん俳句どうしの「つながり」を大切にして、そこから立ち上がるものを掴み取っていきたい。

高柳克弘の「痛み」と題された短文は、カッターで指を切ったときの体感をもとに、「痛み」は「日常に鈍磨した感覚を覚醒させる」契機であると述べ、「心をほっと和ませる句もいいが、微かな痛みを読み手にもたらすような句も、私は好きだ。」と締めくくられている。

痛み。作者は短文において、あくまでも読む側の立場から語っているけれども、同時に作る側の立場にあって、自身もまたその句によって、微かな痛みを読み手に与えることを、望んでいるのではないだろうか。少なくとも、作品「十姉妹」は確かにそうした微かな痛みを伴って僕へ訴えかけてきた。

  バス発ちて寒き夜景に加はれる     高柳克弘

去ってゆくバスの灯りが、どんどんどんどん遠くなって、やがてバスというかたちをなくして、遠く灯る無数の光のひとつになる。「寒き夜景」という把握の距離感、その中へ行ってしまうバスの灯り。そのさびしさから湧く微かな痛みが伝わってくる。

  灯の街へつづける雪の轍かな     同

「バス発ちて」の句とこの句とは、一句をはさんではいても、連作の中にあってはそれぞれに互いの句の世界へ強く干渉しあっているように感じられる。この連作の中でこの句を見れば、雪に残った太いタイヤの跡を思うだろう。そして「寒き夜景」はこの句を見た後には雪の降る街の夜景に塗り替えられうるのではないだろうか。
薄青く積もる夜の雪が、足につめたい。「灯の街」はその中にあっては身にも心にも暖かそうだが、その熱はここまでは届いてこない。

  ぢりぢりと電球の熱おでん酒     同

そして、次に続くこの句で、風景はぐっと街の奥まで入り込む。
でも、この句に人間の存在が希薄なのはなぜだろう。電球と、おでんと、酒。人間のそばにあるもの。でも、この句に人間は描かれない。電球に、おでんと酒が照らされて、人間はくらがりに座ってひっそりとそれらに手を伸ばしている、そんな感覚だろうか。電球の熱と、おでんの熱と、おそらくは熱燗の熱。この句の世界はそうした熱の感応の上に成り立っていて、人間の体温はそこから切り離されているような感覚があるように感じる。「ぢりぢり」が人間の体温を寄せ付けないのだろう。

  雪降るや巨大画面の歌姫に     同

渋谷あたりの駅前の巨大スクリーンが想像された。「巨大画面の歌姫」は華やかで、しかし、どこか虚ろで、はかない。生身ではない「巨大画面の歌姫」には、やはり体温がない。およそ「歌姫」と呼ばれる歌手はいつもひとりで歌うものだ。画面にひとり切り取られた体温のない歌姫の姿が、降りしきる雪の中で、どこかさびしげに映る。それはひょっとすると、童話の中に描かれた、人間のようで人間になりきれない雪女のイメージと重なるからかもしれない。

  新宿は春ひつたくりぼつたくり     同

福永耕二の「新宿ははるかなる墓碑鳥帰る」を踏まえての作品だろう。福永の作品が「新宿」という場を望遠的に捉えているのに対して、こちらの作品は「新宿」に接写することでそこに息づく人間のありさまを映し出している。でも、それはたとえば、「風土」などと誇らしげに呼べるようなものではない。なにしろ「ひつたくり」と「ぼつたくり」なのだから。しかし、それが「新宿」のひとつの現実でもある。そうした現実の生々しさを「春」という言葉が包み込むことで、詩的でありうる範囲に痛みを押さえこんでいる。

鴇田智哉の「その主は」と題された短文は――曰く言いがたい。それは決して悪いというわけではなくて――むしろ僕個人はこういうのはとても好きなのだけれど――、ちょっと神秘的なほどに謎めいているからだ。

「笑い声がしたのだが、その主はついに見えず、栗鼠しかいなかった」という出来事を語り、「最近は、そんな風である」という。どんな風なのか、わかるような、わからないような……やっぱりわからない。けれど、「そんな風である」としか言うことができない何か。作者は、そうした現実のなかに自らを見出している。作品「人影」は、世界を感覚によって捉え、切り出すことで、作者にとっての現実がどんな風かを描き出そうとしているように思える。

  目の玉が昼のつめたい月をみる     鴇田智哉

月をみるということは、十五夜などの特別な場合はともかくとして、潮の満ち引きが生活において重要な意味をなす人びとや、天体観測を仕事なり趣味なりにしている人びとなどを除けば、それほど意識的にされることではないだろう。ましてや、昼の月だ。空を眺めていると、なんだかうっすらとした白いものが、自然と目に飛び込んでくる。なんとなく、見てしまう。月とわかる。――この、「なんとなく、見てしまう」ときに起こっていることを、作者は「目の玉」の意思によるものとして捉えている。それが、はっきりとした認識としてなのかどうかは作者だけが知るところだけれど、少なくとも「そんな風である」と感じているのは確かだと思う。

  上着きてゐても木の葉のあふれ出す     同

上着をきていることと、木の葉のあふれ出すこととは、たぶん直接は関係ない。しかし、もし関係があるとしたら、上着をきているのが、無数の木の葉で出来た何者かだということになるのか。栗鼠が笑い声をあげるような森には、あるいはそんな存在もいるのかもしれないけれど。

  マフラーのとけて水かげろふの街     同

「とけて」は、「解けて」だろうか。まさか、と思いながらも「溶けて」しまったような気もする。僕が生活の中で確かに存在すると信じてきたものが、あるいは信じているものが、この句の中では、水かげろうの揺らめきの中で、街という集合に取り込まれてしまって判然としない。マフラーは、ほんとうにあるのだろうか、なんて、哲学もどきのこむずかしいむなしい問いを立ててしまいそうになるけれど、そんなことはこの句においてはどうでもいいことなんだろう。目に見えるものが、まぼろしだろうが、ほんものだろうが、作者にとっては確かにこの句のように感じられることが、大事なのだろうと思う。

  日陰からおたまじやくしの溢れくる     同

水にも、日向と日陰がある。底まで透けるような浅い水で、それはより明らかだ。岸辺に生えた木やらなにやらで日陰になっているあたりから、無数のおたまじゃくしが溢れるように泳ぎだしてくる。日陰でははっきりしないおたまじゃくしの浅黒い肌が、日向でははっきりと見える。

  うはむきにのびゆくままに茎立に     同

作者の骨頂は、なにも言葉の綾目に発生する不可思議の世界ばかりじゃない。この句の意味は、日向のおたまじゃくしのように、ごくはっきりとしているように思う。
ごく平明な言葉から湧き上がるものが、ぼんやりと、しかし確かに詩になっている、そのことに僕はこの作り手の持ち味を見た。

「微かな痛み」によって世界をヴィヴィッドに知覚する高柳作品の世界観と、「そんな風」という感覚そのままに世界を捉える鴇田作品の世界観、それぞれに、描き出すものは異なっているけれど、その世界観の作り出し方は、案外似ているのではないだろうか。そこでは、作者の感覚によって捉えられたもののうちから、さらにあるものが言葉として切り出され、それと同時にあるものは切り捨てられている。その切り出し方によって、自身の感覚を濃密に純化させようとしているのが、この二人の作者ではないだろうか。

たとえば「新宿は春ひつたくりぼつたくり」は新宿にいる多様な人種の大半を、知覚していながら切り捨てているだろうし、「目の玉が昼のつめたい月をみる」は、目の玉以外の人体――目玉のある生き物は人間のほかにもたくさんいるけれど、たぶん人体――を同じように切り捨てている。、新宿に行って、ひったくりとぼったくりしかまわりにいないかといわれれば、そんなはずはないし、身に刺さるような寒さの中で月をみるときに、目の玉以外の肉体の存在が消滅してしまったかのように感じるかといえば、そんなことはないはずだ。何かを描き出すときに、作者の認識によって何かを切り捨ててしまうという点からして、あらゆる作品はそもそも完全にリアルではありえない。しかし、その一方で、知覚によってまず切り出された世界の有象無象から、さらに何かを切り出すことが、上に述べたような二人の世界観をそれぞれより色濃く打ち出すことにつながっていることは確かだし、濃度を増した感覚は、作品世界に現実よりも現実的な何か――それは作品たちを束ねる統一的な秩序のようなものかもしれない――を与えている。そして、それがおそらく、連なった言葉が持つ世界観というものの正体なんだと思う。

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