『季語別鈴木真砂女全句集』を読む 第二回

 

第一回(前回)

写真1:真砂女の愛したおいなりさんの路地

●「人生=俳句」と読む?

真砂女さんの場合、人生観がばーんと出てる句が多いよね。自句自解するときにも、自分の人生と重ねて書くんだけど、そういう風に、実人生と重ねて読むという俳句の読み方について、どう思う?

「あるときは船より高き卯浪かな」。この卯浪の句だったら、人生とは・・・的なもの抜きで、目がきいてる、っていうふうにとることもできるよね。メタファーとしての人生以前に、卯浪を描写した句っていう。

でも、やっぱり、読むと・・・

それ以上のものを感じちゃう?

うん、それは、船のみちゆきに人生を重ねるみたいな発想が、もともと存在するからかな。船が、句の中で、そういう、人生を示唆する役割を担っているのかな。それとも真砂女さんの経歴に、読みが引っ張られちゃうのか・・・

「初凪やもののこほらぬ国に住み」なんかは、完全に取り合わせの句で。

冬でもものが凍らない国っていいとこだよね。住んでる場所がいいところってかんじがする、でも氷がないのはつまんないってところもあるのかな。

たしかに。

物の凍らないっていうのは。凪だからね。凪は平和でもあるけど、つまらないととることもできる。ほとんどが肯定のニュアンスなんだけど、ほんのちょっと、一抹の、物足りなさも、私は感じるな。

写真2:昔、「卯波」のあった場所。今は駐車場に。

●直球ど真ん中の人

「ある日突然湯島の梅が見たくて来」っていう句、私は結構好きなんだよね。

口をついてでてきたような句。

今、もうすでに湯島の梅の下にいるっていうのが、最後の「来」の一文字に至って、はじめて分かる。

「行く」じゃないもんね。

来てよかった、見てよかった、という。湯島の梅って、梅の名所といえば湯島っていう、王道だよね。

店を出すなら日本の一等地の銀座、ってことで銀座に「卯波」をはじめた、みたいな。

そうそう。だから、真砂女さんって、ど真ん中の人かなって思って。

そうですよね。これだって、取り合わせとしたら、つきすぎてますもんね。湯島だったら梅、みたいな。

そう。恋なら恋の句、直球でばしっと詠むじゃない。「死なうかと囁かれしは蛍の夜」とか。直球ど真ん中。人生にしたって、たとえば「鴨引くや人生後ろ振り向くな」とか。

直球だねえ(笑)

俳句って、本来、ちょっと直球からずらしたりすることのほうが多いと思うんだけど、真砂女さんは、梅なら湯島、螢なら恋、みたいな、昔からの真ん中のストライクゾーンを狙った人なんじゃないかなって思う。そういう人って、意外と少なくて、貴重なんじゃないかな。

●鯛もおこぜも寒くない

「鯛は美のおこぜは醜の寒さかな」って、「卯波」の店のコースターにも書かれてて、お客様にも「え、どういう意味?」とかそういうことよく聞かれて(笑)、「え、どういう意味っていわれても・・・」っていうところがあって・・・紗希さんだったら、どう説明してますか?

私も聞かれたことあるわ。そうだねえ・・・鯛は見た目がきれいで、おこぜは不細工で、寒さっていうのは冬の空気感だけど、同時に心理的な寒さも含んでて、寒々しいってかんじね。生き物として優劣はないはずなのに、鯛は美、おこぜは醜って感じてしまう人間の思考みたいなものに、寒々しいものを感じているのかな。顧みて、じゃあ自分は美か醜か・・・って内省にまでつながる気がするなあ。

これも、季重なりどころじゃなく、鯛、おこぜ、寒さって三つ入ってる。この句に限らず、俳句全般そうなんだけど、この句の何がいい?どういう意味?って聞かれちゃうと・・・うーん。

る理ちゃんは、この句、どう説明してる?

私は、鯛は鯛で寒いし、おこぜはおこぜで寒い、私も寒い、みんな寒さがまとめてるね、みたいな(笑)なんというか、それぞれに寒さがあるっていう、万物の寒さにも、少しずつ違う寒さがあって、自分はどうかってところにもかえってくるんですけど・・・お客様だと、だったらそれがどうしたってことになっちゃうんですけどね。

読み方としては、る理ちゃんに近いかも。美しい寒さもあれば、醜い寒さもあって。それぞれに寒さっていっても、みんな寒いんだよね、ってかんじで。でも、その何がいいの、っていうのはちょっと難しいけど。ただ発見してその呟きってことだよね。でも、ほかの共感できるタイプの句、湯島の梅の句みたいなものに比べて、格調高い分、共感はしにくいのかなあ。

これは、高橋睦郎さんが絶賛してる句なんですよね。

「おこぜが醜の」って、「醜」って、アンタ!みたいな(笑)おこぜ・・・美味しいよ?みたいな。

フォローしたくなる。

じゃあ、鯛のほうを愛でてるってわけでもないんだよね。鯛は美の(寒さ)、おこぜは醜の寒さ。鯛は美の、のあとに、「寒さかな」が隠れてる。

真砂女って結構、人間がはいらない景色を詠んでる句でも、人間の気配はすると思う。必ず人間がいる。

でも、この句に限っては、こっちの期待って感じもしますけどね。

人間のことまで指してるように思えるっていうのは。

でも、「寒さ」って季語をつけると、やっぱり人の感情も思うかな。

たしかに。寒さを感じないもんね、鯛やおこぜは。

そうそうそう(笑)

●口をきいてくれない男は憎い?

句を読むとき、どこまで作者の人生を加味するかっていうとき、真砂女さんの句は、人生を参照しなくても、句に情報が書いてあるよね。「男憎しされども恋し柳散る」とかも、好きだな。リズムがよくて。

リズムがいいですねぇ。

「柳散る」がねえ・・・

どうですか?

そうだねえ・・・

でも、真砂女さんらしい付け方ですよね。

銀座には柳、ってイメージだもんね。柳って、しなやかといえばしなやか、風にゆらゆらなびくってところが、男に対する私の心境のゆらゆらが思われて、かなしいといえばかなしい。

わりと、古くから物語がつくられがちな樹だよね。

幽霊がいたりしてね。

そうそうそう。燕が寄ってきたりね。

昔から、浄瑠璃や近代小説の悲恋の物語ってあったわけだけど、そういう、文学における伝統的な恋愛のありかたにかなってるってかんじの句だよね。真砂女さんの句は。

恋の句といえば、「口きいてくれず冬濤見てばかり」。

たしか『人悲します恋をして』に自解が載ってたよね。

あれっ、でも『鈴木真砂女集』(俳人協会)の解説では、この句、波郷のことになってる!

えええええ!(笑)

波郷は、読売文学賞を受賞したときに、山本健吉を代理で授賞式に行かせて、自分は鴨川グランドホテルに泊ってたって話もあるよ。

へえー。

すごいなあ。

代理に健吉・・・

すごいねえ。

波郷だとしたら、無口だから「口きいてくれず」ってこと?

句を読むと、恋の句だよね。二人で海にきてて、なんかわかんないけど機嫌を損ねて。

そうそう、機嫌が悪い。

どうしたんだろうなあ、機嫌悪いし、でもなんかいうと、また何が怒りのもとになるかわかんないし、結局・・・

沈黙。

そうそう。ふたつみっつ、今日は波が高いね、とか、話しかけてみたけど、ぶすー、みたいな。結局、寒いし、海風もあるし、でも喋らないから戻ろうかっていうのもあれだし・・・

「きいてくれず」っていうところに、きいてほしいっていう感情が、かわいいけどさ、出てるから、恋の句に見えがちなんだよね。

でも実際、自句自解を読むと、恋の句なんだよね。

恋愛には、こんな日もあるよっていう、共感呼ぶよねえ。

(第三回に続く)

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