2011年6,7月・第三回 夾竹桃「自分をふるいたたせろ」と言う 四ッ谷龍(生駒大祐推薦)

2011年6,7月   村上鞆彦×西村麒麟×生駒大祐×神野紗希×江渡華子×野口る理

野口   生駒くんはどうなんですか、最近。就職は。

生駒   就職先、いちおう決まりました。

一同   おおー、おめでとう(拍手)

野口   某A社から来たってこと?

生駒   某A社に決まりました。

江渡   “イヒ”だね。

生駒   そこの、半導体を作ってるところです。物理系の部署で。

野口   これで就職活動は終わり?

生駒   その予定です。

夾竹桃「自分をふるいたたせろ」と言う   四ッ谷龍
(句集『大いなる項目』ふらんす堂、2010年11月)

生駒   当然、今回の震災の影響はなきにしもあらずっていうか、絶対あって。他にもうひとつ、候補としてあったのが、今井杏太郎さんの「それも夢安達太良山の春霞」(角川『俳句』2011年5月号「震災の一句」)。俳句はよかったんですけど、コメントが「よく眠りよく食べて元気になってください」ってあって、すげえこの他人感!ってのがあるんですよ。他人感が厭ってわけじゃなくて、所詮、他人事でしかないんだなってことで。僕が震災に関して思っていることは、誰もがある意味震災の被災者だってことです。すごい傲慢な発言になりますけど。じゃあ、家が流されてしまった人が被災者なのか、ちょっと家が壊れた、瓦が落ちた人まで被災者なのか、帰宅難民も被災者に数えていいのか、またはニュース映像で何度もショッキングな映像を見て、精神疲労してしまった人も含めるのか。分けていくと、相対論みたいになっていくんですけど、全員が被災者ってことなんじゃないかと思って。そうすると、相対的な被災者ってものに対して励ましを送るんじゃなくって、他人は他人同士、自分は頑張るからあなたも頑張ってね、という、一対一の関係だけがあるっていう結論に、僕は今日、至ってるんですね。

江渡   うん、うん。

生駒   そういう意味で、今回は、震災というより、個人的なかなしみという点で、この句を選びました。四ッ谷龍さんの句集っていうのは、すごくかなしみが横溢している句集だと思いまして。「くしゃくしゃの祈りをひらき祈るなり」とか。また、亡き妻の名前を口に出すって句があったり、田中裕明の追悼の句があったりとか。身近ないろんな人の死を乗り越えて、経験した上での句なんです。夾竹桃って、桃色の花ですよね。自分の個人的な心の発露と、季語をぶつけてきたっていう、取り合わせという技法を使ったこの句が僕の心に迫ったので、この句をとりました。

村上   「夾竹桃のうた」って知ってる?

生駒   知らないです。

村上   僕らの世代は、夾竹桃っていうと、原爆投下のイメージなんだよね。「夏に咲く花夾竹桃」って、小学校のときに歌ったよね。

神野   原爆といえば、夾竹桃。夾竹桃といえば・・・

村上   原爆。瓦礫から立ち上がる花。広島。そういうイメージがあるので、この取り合わせに、あまり飛躍を感じないです。これは僕の世代の読み方かな・・・

神野   私は、俳句を始めてから、夾竹桃がそういうイメージを持ってるっていうことを知りました。それまでは、知らなかった。

村上   八月六日に、学校に行って、平和授業って受けなかった?

神野   受けなかったです。村上さん、ご出身は?

村上   大分。九州ですね。

神野   長崎があるからでしょうか・・・八月六日に学校に行って・・・

村上   夏休みでも、登校日だったんですよ。

一同   ええー!

村上   映写機で原爆関係の映像を見て、「夾竹桃のうた」を歌うっていう。

神野   大分ではみんなそうなんですか。

村上   全国、そうだと思ってたんだけど・・・。

西村   僕、広島出身なんで、ありましたよ。『裸足のゲン』、毎年見せられました。

江渡   『裸足のゲン』は、教室の本棚にはあったけど・・・

野口   平和授業はなかったと思います。夾竹桃のうたも知らなかったです。

西村   僕のころはもうやってない。僕は、折り鶴を折ったさだこさんの逸話だった。

江渡   それ、道徳の教科書に載ってた。

西村   広島はとにかく、平和学習が盛んなところだったよ。先生をするのは、なかなか大変そうだった。僕のときはね、小学校のとき、卒業証書を平成で書くか、西暦で書くか。で、担任の先生が、「元号は、戦争のときにどうのこうので・・・」って説明して「それでも元号で書く人、手を挙げて!」って聞いて、アンケートとって。みんな挙げないじゃん。だから、みんな卒業証書は西暦なの。

野口   へぇ・・・。

江渡   特殊だね。

野口   夾竹桃っていうのは、どんな土地でも頑張って咲くっていうイメージなんですね。

村上   沖縄でも咲くから、やっぱり、反戦のイメージがね。

江渡   そうなんだ・・・。

村上   よく、夾竹桃のももいろが、被曝した火傷のケロイドの色だって言われて。

生駒   ええっ、そこまで・・・。

神野   村上さんと私は、4歳しか違わないんですけど・・・

西村   戦争について言っちゃいけないって感じが、僕ら(西村・神野は同年生まれ)にはもうすでにある。

神野   平和教育の記憶は、ほとんどないですね。

村上   僕、八月十五日も登校してたよ。終戦の日も。

西村   毎年、僕も作文書いたよ。「戦争の悪について」。

神野   あ、そう(驚)

西村   僕の学校は、君が代がかかると座らなきゃいけない。

生駒野口    えー!(驚)

西村   みんなが、ザって座るの。いっせいに。

神野   立ってると、天皇を敬ったことになるから?

西村   ダメなの。でも、校長・教頭は文部省だから、座れないの。で、担任は座ってるの。だから、すごいのよ。日ノ丸を掲げなきゃいけないって決められたのは、たぶん、僕らの時代だと思う。国家斉唱で座っちゃいけないとかいうことに罰則がつけられはじめたのは、僕らの世代から。

村上   あ、「夾竹桃」という単語に関する思い入れで、変な方向に進んでしまってすみません(汗)

神野   句に戻りましょうか。

村上   でも、単語のイメージを強く読んでしまうので、やはり第二次世界大戦のイメージを強く読みとりました。焼け跡から立ち上がる、みたいな。

生駒   そうなっちゃいますか。

江渡   夾竹桃に関する知識があるかないかで、全然解釈が変わってしまいますね。

生駒   世代で。

神野   要するに、夾竹桃っていうのを・・・

村上   単なる花として見るのか・・・

神野   夾竹桃っていう花の本意に、戦争のイメージがすでに書きこまれているのかっていうところの共通認識が微妙なんですかね。

江渡   夾竹桃から、カギカッコに向けての流れがよくわからない・・・

村上   「言う」の主体は、夾竹桃「が」ってことなのかな。それとも、誰かが、ってことなのかな。

江渡   切れてて、誰かが、自分が、だと思いました。

神野   切れてるんでしょうけど、私は、夾竹桃「が」っていう風に解釈したいっていう気持ちがあります。「と言う」ってつけることで、「自分をふるいたたせろ」って言葉を客観視して、つきはなしてるわけですよね。さめてるというか。「と言う」ってつけたことで、カギカッコ内の言葉が、凍ってしまうというか。

野口   カギカッコがあることで、なおさら遠さを感じますよね。

神野   そう。だからこの句は、その遠さを出してる句だっていう風になら読めます。「自分を~」という、そういう言葉があるけれど、結局は夾竹桃が咲いてるだけだ、っていうような、そういう句としてなら。

生駒   ひとつ弁護させてもらうと、「と言う」っていうのは、自分でも何言ってんだろ、っていう気持ちがありつつも、でも言ってるんだっていう、そこらへんの微妙なニュアンスを言ってるんだと思います。客観視してはいますけど、でも言ってる自分は確実に存在するんだってことは言えるかな、と思います。夾竹桃とのつながりでは「が」という風にはとれないです。夾竹桃は背景として咲いていて、そこの空間の中に自分がいて、こう言ってるという。

西村   ジャンルとしては好きなタイプではあるけど・・・

村上   ジャンルとしてってどういうこと?

西村   加藤郁乎さんみたいな。

村上   いや、郁乎さんとは違うでしょ。

西村   「冷奴十年早い奴共」みたいな。言いたいことつけて、季語ぽーんと言って。

神野   それ、郁乎さんに限らないんじゃない?

西村   「と言う」じゃなくて、下までがばーっと言ったほうがいいような気もする。夾竹桃は背景だと思う、「が」じゃなくて。

神野   もちろん、「が」でつないでも、夾竹桃は背景なんだよ。夾竹桃はしゃべらないから、夾竹桃に作者の感情が投影されてるっていう風な読みになる。夾竹桃で切れちゃうと、全体に、ぶちぶちしちゃうじゃないですか。句として。

西村   ぶちぶちしてる句なんじゃない?

神野   レトリックを放棄しつつあるところを評価するかどうか。

西村   僕はこの台詞は好きだけどね。

神野   台詞を「だってさ」っていう風に自嘲しつつ、っていうところを楽しむってことなのかな。

生駒   この句の収録されている『大いなる項目』っていう四ッ谷さんの句集は、連作っていうかたちをかなりとっていて、テクニカルに作っているんだけれども、「祈るなり」という連作もあったりして、自分の生な感情を描こうとしてます。そのために、ある種、連作をテクニック的に選んでるんだな、と思います。句自体、ぶつけているような、ストレートな句が多いんですけど、僕はテクニックに飽きてきた部分もありまして、うまければそれだけでいいのか、っていうところへの疑問も含めて、詠みたいものを絶対に持っている人っていう意味で、今回、四ッ谷さんを選びました。生な言葉が出ている。

野口   『大いなる項目』は、ジャンル分けするのもなんなんですけど、俳句というより、詩のような読後感でした。俳句じゃないからダメとかそういうことではなくて、詩情豊かと言えばいいでしょうか、詩に寄っている。

生駒   俳句のうまみみたいなものを活用して作ってるわけじゃない。言葉の力のみに頼って作ってる感じがする。

野口   連作が多いっていうところも、詩だって感じる理由として大きいんでしょうね。十七音でやるっていうよりは、一冊でやろうっていう感じがしました。だから、こういう風に一句だけ出してくると・・・

生駒   そう、きついところはあるんですけど。

村上   この句の前後が読んでみたいね。

(次回は、おまけ1。田中裕明賞について、ちょっと語ります。)