2012年1・2・3月 第十一回 『けむり』の話 1

上田信治×西原天気×江渡華子×神野紗希×野口る理

『けむり』

上田  以前、紗希さんが、twitterで「切実さ」の話、してたじゃないですか。その「切実さ」の、典型的な例が、天気さんの句集『けむり』の中にある、亡くなった山本勝之さんを詠んだ句だと思うんですよ。「ペンギンと虹と山本勝之と」。

西原  おお。その句?

上田 今井聖さんが、句集の感想として「山本勝之さんの句がいい」って書いてきて下さったんですよね。

西原  はい、お手紙に「好きな句」と。びっくりしたし、すごくうれしかった。

上田  でも、今井さんは、山本さんのことは、知らない。あの人は、そういうところに反応する人で、個人的な表出に対しては、絶対的に評価する。それって、まず個別の切実さがあって、それがそれらしく表現されてるっていうことではなくて、切実さというものはじつは普遍的なもので、それが作品を通して、まったく事情が分からないはずのひとに伝わってしまう、ということの、いい例だと思うんです。

江渡  うんうん。

上田  僕は、いちおう、山本勝之さんのことを知ってますよ。でも、天気さんをはじめとする、すぐそばにいたひとたちのようには、知らない。でも、天気さんが、この句を詠んだことの意味は、分かる。伝わるものがある。大きな切断があって、いいんです。僕、そのtwitterのとき、一般的な「切実さ」の定義作りましたよね。えーと「共有されていない個人的感情が、共有されることを要求している感じ」か。それは自分にも相手にも要求してくるものなんですよ。だから、感情の内容が伝わるのではなくて、同じ切実な感じ、というのが伝わることがある。それが、俳句の面白いところではないか。

神野  そう!そもそも、作った人がいて、作品が出来て、読者が生まれるんじゃなくて、まず作品があって、そのこっち側に作者がいて、こっち側に読者がいる。で、ここ(作者)のことは、ここのひと(読者)にはわからない。

上田  ここは、クレバスがある。

神野  読むひとは、ここ(作品)を見てるわけですよね。でも、ここ(作品)になにか、こっちのひと(作者)の手触りがあって、それがわたしたちを誘う。

野口  「ここ」の意味がそれぞれ違う…。これ、絶対、テープ起こししたらわかんない(笑)。

西原  それこそ、クレバスだ。

神野  まず、ここがあるんだな、ってことですよね、作品が。作者と読者が、まったくおなじものを感じているわけでは、実はない。でも、これは作者の感じたものと同じなんだって、錯覚できる幸せ? それが、読む幸せかなって。

上田  通じるということはあり得ないのだ。幻想なのだ。勝手に、テキストを前にして、生じる反応があるだけなのだ、という、ポストモダン的な感覚というのは、かえって素朴だと思いますね。人間というのは、動物としてお互いこんなに似ているってことを前提とせずに、なんの表現行為が可能であろうか。

神野  うんうん、そうです。

上田  田島健一さんが、twitterで、切実に感じる己を疑えっていってましたよね。切実というのは、主体と別にあるのではないか、と。主体と切実を解体して考えたいっていう、田島さんの気持ちは尊重しますけど、そういうふうに考えるというのは何らかの修行みたいなものであって、普通には、それは無理でしょう、って思う。

神野  そうですね。天気さんの「ペンギンと虹と山本勝之と」に戻ると…

上田  この句は、ペンギンが鍵だと思います。

神野  そう。固有名詞が入ってるから切実なんだ、他人には分からないひとの名前が入ってるから、切実さを感じるんだ、って言っちゃうのは簡単なんですけど、じゃあ、山本勝之さんっていう名前が入っていたらなんでもいいのかっていえば、そんなことは、絶対ない。「ペンギン」と、それから「虹」と。

上田  ペンギンも虹も、山本勝之の名前を出すのと同じくらい、天気さんにとって、必然性があるわけですよ。

西原  ふたりともうまいこと言うねえ。

神野  天気さんが照れてる(笑)。

西原  あの句は、句集の中でもいちばん、読者を無視した句なわけですよ。著名人を詠み込むからまだしも、「山本勝之」をほとんどの読者は知らないんですから。でも、読者がどう思おうといい、自分は句集に入れる。そういう気分で入れた句です。ところが、それが意外な読者に伝わるっていうのが、ほんとにびっくりした。うーん、俳句って、深いわ、と(笑)。

神野  読者に分からなくてもいいっていう、体当たりの姿勢が…

西原  気合いが?(笑)

神野  ひとを感動させる。

西原  むかしカメラマンと、写真撮るときの話になってね、どうしたら、いい写真が撮れるんですか、というようなことを聞いたの。そしたら、「写れ!って念じるんだ」と(笑)。

神野  ほんと?(笑)

西原  まあ、冗談半分でしょうが、本気も半分だと思う。気合いしかない。俳句も似たようなところがあって、どこか気合いが入ってる句と、そうじゃない句は違いが出てしまうのかもしれない。それはシリアスな句ということではもちろんなくて、脱力にも諧謔にも、脱力なり、諧謔なりの気合いというものが必要。

江渡  ふーむ。

西原  実はね、『けむり』を出そうって準備してたのが、去年の一月くらい。で、ちょうど『俳コレ』の企画時期でもあったでしょ。だから、信治さんに提案したんです。「俳コレの予行演習、してみません?」って。僕が句集用に用意してた句を、信治さんに試しに100句、選んでもらう。そしたら、信治さんは選ぶひとの気持ちが分かるし、僕は選ばれるひとの気持ちが分かる。ひょっとしたら他選って感じ悪いかもしれないし…。で、百句選、してもらった。

野口  そしたら?

西原  けっこう面白かった。

上田  ひとつ分かったのは、人の句を選ぶのは、意外と大変だってことです(笑)。

神野  ははは(笑)何句くらい送ったんですか?

西原  600句くらいかな。選ばれてみたほうとしては、自分が大事に思ってた句は洩れなく入ってたし、なおかつ、意外な句も入ってた。だから、他選はいけるな、って。それで、句集のほうもね、信治さんの選んでくれた句を、自選とは別のもう1本の柱のようににして作ったところもあった。信治さんの100句選に入った句で、句集に入れなかったのはたしか1句だけです。最後は自分だけど、途中、自分だけだと、どうしても揺れる。揺れが止まらなくなって、「ああ、邪魔くさい、もう出すのやめようか」ということにもなる。その意味で、他選を得たことはラッキーでした。

上田  『けむり』に、ぜひブースカの句はいれてほしかったので、入っていたのが嬉しかった。

神野  「空ばかり見てブースカが芋畑」。

西原  あれは自選だと入れなかったかもしれませんね。俳句を始めて1年経った頃の句。今度の句集、自分で面白かったのは、1年目か数年目の句もわりあいたくさん入ってるんですが、それを近作と混ぜて並べても違和感がなかったこと。進歩がないというのかw、編集は句作とはまた別の作業というか…。

ユキ  ブースカ、そこにいるよ。

西原  そうそう。

ユキ  ピアノの上にいるんだよ。

野口  ええ、ほんとだ!

西原  あのブースカが、あそこにいたんだよね。芋畑に。

ユキ  たぶん、誰かがユーフォーキャッチャーでとってきたのを、畑に捨ててたんだろうね。

上田  ええ、実話なんですか(笑)。

西原  そのまんまの句なんですよ(笑)。それで、ユキが洗って、ずっとあそこに置いてある。

江渡  そうなんだ。

西原  まんま、なんですよ。ソファーの句(「数ページの哲学あしたくるソファー」)も、次の日にソファーが来るなあ、と。そのソファーが、それね。

神野  ええ、これ?

西原  そうそう。

(次回、ひきつづき『けむり』の話を伺います)