秋風が芯まで染みた帰ろうか 田島風亜
( 『秋風が…』私家版、2011)
神野 私は、句集から持ってきました。田島風亜さんという俳人です。去年、亡くなられましたが、1956年生まれなので…。
村越 まだお若いですね。
神野 うん、まだ50代でした。ずっと闘病生活を続けてこられたようで、今日もってきた『秋風が…』は、私家版の句集です。結果的に遺句集となりました。高山れおなさんが、「詩客」の「日めくり詩歌」2011年12月16日の記事(http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2011-12-26-4766.html)にて、取り上げていらっしゃいます。
村越 女性ですか。
神野 男性だそうです(2012.8.6訂正)。この句は表題句、とても好きな句です。この人、帰れない感じがするでしょ。秋風がからだの芯まで染みて、冷えてしまって、帰ろうかって思ったときには、もう秋風の側の人間になっているような。もう、作者が透明になってしまっているような感じがする。
村越 (句集をめくりながら)すごく句の幅が広いですね。
神野 そうなの。
村越 「ゆるキャラが流行る寒くて悲しい国」。
千倉 面白い!
神野 「寒い」っていう体感の季語を、心情的に使ってるんだよね。「悲しい」と同列に扱うことで、季語だってことをつい忘れてしまうところがある。
高崎 「寒くて悲しい国」…。
村越 ほんとに悲しくなりますね。
神野 ゆるキャラの表情も、みんな悲しく見えてくるような。
村越 「スクリューぶるんぶるんるんるん春の海」。
神野 それも好き。「春の海」って感じがするよね。船のエンジンをかけてるんだよね。
村越 最後は「るんるん」になるんですね。
神野 そうそう。春の海って「春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村」があるように、古来、オノマトペを許容する海だと思うんだよね、文学的に。だから、この句、自由なようでありながら、ちゃんと俳句の蓄積のうえに立っている。
千倉 「パンジーの吹かれて破れかぶれなり」、面白い。好き。
野口 秋風の句は、作者が芯まで冷えてるんですか。
神野 そう解釈しました。
野口 「芯まで染みた」でいったん切れてるけど、「帰ろうか」も、同じ人が言ってる、ってことだよね。
神野 うん、呟きが2センテンスになった、という。
野口 ふつう、ここで秋風を持ってこないよね。意味としては、重ねまくっている。
神野 高崎くんは、こういうのどうかな?インパクトあるかな?
高崎 いや、もう、普通に泣きそうです。
神野 こういう俳句は、俳句の人にも、俳句を知らない人にも、ぐっと届く句なんじゃないかな。
千倉 風が通るとか、吹き抜けるとか、とどまるとかはあるけれど、「芯まで染みた」っていう表現はないような気がする。
村越 この方の句集を全体的に見渡してみて、作風の幅がとにかく広いわけじゃないですか。僕の挙げた斎藤朝比古さんとは、真逆ですよね。これだけいろんな俳句が入っていると、バリエーションはあるけど、ひとりの作家として全体像を捉える場合、どうなんでしょうね。
神野 私は、田島さんの俳句全体に通底している気分はあると思いましたね。いきいきと言葉で呼吸している感じ。俳句という形式に内容を詰めようとするんじゃなくて、俳句の長さで喋っているような。
村越 俳句に語らせるような感じでしょうか。
神野 俳句が型だってことを、忘れさせてくれる、ナチュラルさがあるんだよね。型をしっかりおさえてるんだけどね。型があるからこういう俳句になった、ではなくて、言葉同士がきちんと一句一句、こうでなければならないっていう並びに結びあっている感じ。
村越 なるほど。
神野 この秋風の句も、ひとつのパターンではあるのよね。上12文字でぽうんと何か季節のことを言って、最後の5文字で心情を呟くっていう形。たとえば南十二国さんの「たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう」とか、奥坂まやさんの「坂道の上はかげろふみんな居る」とか。でも、そういうパターンにはめたっていう感じが全然しなくて、「秋風が芯まで染みた」から「帰ろうか」っていう言葉が運命的に出てくる。…でも、そういう、ラスト5文字で呟いてとどめをさすパターンの俳句が、きっと私、好きなんだなあ。
野口 「芯」の字の中に「心」が入ってるから、それを思うとつきすぎ…というか、分かりやすい句ではありますよね。歌詞っぽくなっちゃう危険性がある。
神野 そうだね。そう考えても、かなり高度なところで成立している俳句だと思います。
(次回へ)