『黄金時代』秋声にひらきしは
寺山修司(1935~1983)については、割合読んでいたという記憶があるが、いつの間にか、さほど興味をおぼえないようになっていった。
寺山修司の著作は多く(100冊以上とも)、内容も多岐にわたっており、現在見ると全体的にやや雑多な印象を受ける。
寺山の書いたもので、今後残るのは短歌作品のみ、という意見をどこかで読んだことがあるが、確かに初期のものと第1歌集『空には本』の中のいくつかは、現在から見ても少々馬鹿にできないものがあるな、という気がする。
俳句の方も少し読んでみたが(『花粉航海』)、こちらの方は、いくつか秀句が確認できるものの、少々拙い表現も見られるかな、といった印象も(思えば、現在ではこれらの句は、自分より年下の「寺山君」の書いた作品なのである)。
個人的には、寺山の書いたものの中で、面白いのは文芸関係の評論ではなかったかという記憶がある。
そう思いながら、手近にある『戦後詩』(ちくま文庫 1993年)を、引っぱり出してきて、ぱらぱらとめくってみると、目次の部分の、
「書斎でクジラを釣るための考察」
という章題が目に入ってきた。
もしかしたら、寺山修司において特に傑出していたのは、こういった「キャッチコピー」的なセンスなのかもしれないな、という気も。
例えば「身捨つるほどの祖国はありや」、「書を捨てよ、町へ出よう」、「家出のすすめ」などの有名なフレーズを思い浮かべれば、そのことは首肯できるであろう。
他にも、少し探してみただけでも、「さかさま世界史」、「誰か故郷を想はざる」、「勝者には何もやるな」、「時には母のない子のように」など、そういった種類のものを、いくつも見出すことができる。
これらの言葉を眺めている内に、寺山修司の表現において核心をなすキーワードは、もしかしたら「逆説」なのではないか、という気がしてきた。
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
流すべき流灯われの胸照らす
勝ちて獲し少年の桃腐りやすき
便所より青空見えて啄木忌
わが夏帽どこまで転べども故郷
枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや
帆やランプ小鳥それらの滅びたる月日が貧しきわれを生かしむ
一本の樫の木やさしそのなかに血は立つたまま眠れるものを
勝つことを怖るるわれか夕焼けし大地の蟻をまたぎ帰れば
頬つけて玻璃戸にさむき空ばかり一羽の鷹をもし見失わば
夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず
ここに引いたのは、寺山の俳句と短歌であるが、いずれの作品においても逆説的な表現を見て取ることができるであろう。
これらは若い頃の作品であり、このようにみるとその創作の初期から逆説による表現がなされていた、ということになる。
そして、先にいくつか見た通り、その後もこういった手法については、様々なかたちで用いられており、やはり寺山修司の表現において終始一貫していたのは、こういった逆説による表現といえるはずである。
さて、今回の句における『黄金時代』であるが、1978年刊行のもので、内容としては短歌や現代詩を論じた「詩歌論集」ということになる。
冒頭に「百人一首」が据えられてあるのが、まず目をひく。
タイトルは「現代百人一首」で、与謝野晶子、斎藤茂吉から村木道彦、佐佐木幸綱までの作者の短歌が100首選出されており、その内の50首に鑑賞文が付されている。
桃二つ寄りて泉に打たるるを微かに夜の闇に見ている 高安国世
夕方の園に入りゆき嘴くろき鶴をみてゐき子のなきわれら 香川進
こともなき熱き夕べに目の前にて見知らぬシャツの背が濡れていつ 森岡貞香
ふゆ原に絵をかく男ひとり来て動くけむりをかきはじめたり 斎藤茂吉
ガラス戸のそとに飼ひ置く鳥の影のガラス戸透きて畳にうつりぬ 長塚節
書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(をみな)来てわが読みて行く字の上にゐる 森鷗外
夕かぜのさむきひびきにおもふかな伊万里の皿の藍いろの人 玉城徹
このように、必ずしも前衛的な作品のみならず、どちらかというと割合渋い感じの短歌も選ばれているのが、少々意外な感じがした。
また、同じ『黄金時代』における「あとがき」の方にも割合注意を引かれるものがあった。
『黄金時代』は大きく三つにわけられる。最初の「現代百人一首」は、以前から一度やってみようと思っていたもので、晶子、鉄幹の時代から建、幸綱の現代にいたる近代の百余年の歌を対象に、じぶんの好きなものを選び、それに勝手な鑑賞をつけたものである。
本書では、鑑賞は五十首にかぎってあるが、いずれは残りにも鑑賞を加えたいと思っている。
ただ、こうして選歌してみると、私は「歌よみの歌知らず」で、百人選ぶのに大苦労し、深夜、塚本邦雄を電話で悩ましたり、初出誌の「短歌」編集部に、締切おくれで大変迷惑をかけたりしたのであった。
「これが俳句なら」
と私は思った。俳句ならば、やすやすと百人選ぶことも百句選ぶこともできたことだろう。それは、単に私の嗜好の問題にとどまるものではない。俳句は、おそらく、世界でももっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感されるのである。
「俳句ならやすやすと100句を選べただろう」とのことであるが、これについては是非ともなし遂げてもらいたかったという思いがする。
そして、その後の「俳句は、おそらく、世界でももっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感されるのである。」という部分もまた興味深い。
この「あとがき」は、1978年の文章ゆえ、寺山の42歳頃の言葉ということになる。
ここからは、やはり先程にもふれた「逆説」という言葉が思い浮かんでくるといっていいであろう。
俳句という極小の詩型が、「世界でももっともすぐれた詩型」であると見做す逆説。
一度俳句から離れた表現者が、時を経てこのような認識に至る結果となったのは一体なぜなのか。
これは、逆説を旨とする表現者がいずれ辿ることになる当然の帰結だった、ということになるのであろうか。
そのあたりの事情については不明ながら、寺山がもし1983年に47歳で亡くなることなく、俳句の世界へと帰還を果たしていれば、一体どうなっていただろう。
終わりに、寺山修司の生前最後の詩作品である「懐かしのわが家」(1982年9月『朝日新聞』掲載)を引用することにしたい。
やはりここにおいても逆説的な表現が用いられていることが確認できる。
そして、その内容からは、どこかしら俳句形式の存在を思い起こさせるものがある、といえば、少々深読みが過ぎるであろうか。
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の
小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向って育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ