法師蟬『俳句の海で』見(まみ)えしは
次に書架より取り出したのは、高柳重信『俳句の海で』(ワイズ出版 1995年)。
戦後の俳句界を代表する俳人といえば、やはり、飯田龍太、森澄雄、金子兜太、高柳重信の4人が挙げられるであろう。
その中でも、高柳重信(1923~1983)の存在は、同世代の飯田龍太、森澄雄、金子兜太らと比べると、いくらか悲調を帯びているといった印象を受ける。
戦中派で、若い頃から結核を患い、戦後は『蕗子』などといった多行形式による句集を上梓し、優れた俳句評論の書き手としても活躍した。
1968年頃から俳句総合誌『俳句研究』の編集長として編集に携わり、1983年、60歳で逝去。
俳句の実作者と同時に批評家、そして、総合誌の編集者でもあるというきわめて懐の深い俳人であった。
中でも、総合誌の編集長の役割というのは、きわめて重責と心労の伴うものだったのではないかと思われる。
60歳での逝去には生来よりの病弱な体質も当然関係していたのであろうが、こういった総合誌の編集作業による負担も少なからず影響を及ぼしていたのではないかという気もする。
さて、『俳句の海で』は、その高柳重信が編集長を担当した総合誌『俳句研究』の1968年4月号から1983年8月号までの全185冊における編集後記を集成したものである。
目次を眺めるだけでも、様々な作家特集や過去の出来事の検証、新人の特集などといった項目が並び、資料的な価値の高さとともに、その歴史的な堆積にも圧倒される思いがする。
そして、編集後記もまた、それぞれの特集の総括といった趣きで、様々な示唆に富んだものとなっている。
高柳重信の文章は、どれも平易な言葉で書かれているため、誰にでも読むことができるところがある。
それでいて、語られている内容は、相当に深い。
その文章は、それこそまるで何かしらの魔法が施されているのかとさえ思われるような、きわめて不思議な求心力に満ちており、当時の多くの若者たちが魅了されたというのも肯ける。
これだけカリスマ性を感じさせる俳人の存在も稀であろう。
まさに根っからの「俳句の啓蒙家」だったといえるはずである。
全集としては、立風書房から1985年に全3巻のかたちで纏められているが、まだ充分な内容のものとは言い難いであろう。
改めてもっと完全なかたちでの全集が刊行されないものか、と切に思う。
これまでの文章は、一応、弟子の岩片仁次の手によって纏められているそうであるが、現在のところ入手は難しいようである。
以下、『俳句の海で』より抜粋。
・それぞれの俳人が、次第に内面を充実させ、自己の判断力に信頼を抱きはじめると、その作風の違いや、各自が育ってきた系統の別などによる、いわば党派的な弁別には、それほどこだわりを持たなくなってくる。野見山(朱鳥)に対する大きな期待も、そこから育ちつつあった。まことに、惜しい俳人を、惜しい時期に失ったことになる。(『俳句研究』昭和45年6月号)
・もともと、俳人としての第一の栄光は、まさに俳句形式にふさわしいような、すぐれた一句に出会うことにあった。すなわち、それは、生涯をかけて、その一句に価する作品を遂に書きとめることであるが、また一方で、すでに誰かの手によって書かれた作品の中から、もっとも見事な読者として、その一句に価するものを遂に発掘することでもある。ただし、率直にいって、これは決して容易なことではない。(『俳句研究』昭和49年8月号)
・批評精神にとって永遠の敵と言うべきものは、すなわち固定観念の呪縛である。批評精神の衰弱は、真直ぐに固定観念への道に繋がっている。したがって、批評は絶えず更新されなければならない。もちろん、更新といっても、その日その日の風向き次第で見解を変えてゆくということではない。昨日の見解に対して、そこに誤謬はないかどうか、改めて今日も問い直してみなければならぬということである。(『俳句研究』昭和57年2月号)