2015年9月11日

夜這星塀あるかぎり猫あゆむ

車内で中吊り広告を見ていて、堀北真希の記事があった。ネットで調べてみて、彼女が結婚したのを知った。我が家にはテレビが無いので(厳密に言えば中野のドン・キホーテで購入したテレビはあるのだが、アンテナがなく電波を受信していないので実質的にモニターの役目しか果たしていない)、特に芸能情報が入らない。かつてテレビっ子だったのが嘘のようで、おそらく世間との時差が1週間程度あったはずだ。

堀北真希が、結婚してしまった。

ぼくは堀北真希のファンでもないし上戸彩が離婚しようが石原さとみが破局しようがどうでもいいのだが、なぜかこの事実は「堀北真希が結婚した」ではなく「結婚してしまった」と感じられた。そこはかとない喪失感がぼくを俯かせた。心の底では、堀北真希が好きだったのか、おれは。

いや、違う。堀北真希は違うのだ。薄暑の海辺に聳えるギリシアの家々のような、あの透明な存在には「結婚」という文字はあまりに遠すぎた。少なくとも、ぼくは彼女に性の匂いを感じていなかった。ひもすがら鏡と向き合っている沈黙が、堀北真希には似合う。そこが、上戸彩や石原さとみとは明らかに異なる。こうして、青年の妄想は暴走する。

つい先日、サークルの或る四年生がいつの間にか学生結婚し、しかも父になったのだと知った。衝撃だった。それはその先輩の人生に対してというよりは、自分もそのような人生の可能性を孕んだ年齢に達しつつあるということに対しての衝撃だった。人間が人間を創造するという行為の遥けさに、眩暈がする。それはきっと欲望とは遠く離れたところにあって、いや、本能的には連絡しているのであろうけれども、しかし神聖である。同様の行為にもかかわらず、それはときに清浄であり、ときに不浄にも感じられる。

話が飛んだ。つまりぼくが堀北真希に感じたのは、人類が創造したものの神々しさであった。それはメディアが演出したものではあったが、まさか本人が、例の、かすかに狂気じみた山本耕史のアタックに屈してしまうとは、思わなかった。その瞬間、人類は「堀北真希」を喪ったのである。