2016年2月2日

街道をそれて港へ春隣

935(承平5)年2月の11日から16日までの間、紀貫之は大山崎を訪れていた。とはいえ、土佐から京へ帰る道中であっただけのことといってしまえばそうなのだけれども、天候による足止めというわけでもなくこの地で5泊もしているのだから、やっぱりここは何か特別な地であったのだろう。残念ながら、この間に彼がここで何をしていたのか、『土佐日記』にはほとんど何も書かれていない。15日にとある家で立派なおもてなしを受けたことくらいである。
彼はこの地に舟でやってきたのだけれども、その時の様子を『土佐日記』にこう記している。

……やまざきのはし(橋)みゆ。うれしきことかぎりなし。こゝに、相應寺のほとりに、しばしふねをとゞめて、とかくさだむることあり。このてらのきしほとりに、やなぎおほくあり。……

彼が舟を泊めた場所、そこが、山崎津。その跡地もいまではすっかり陸地になっていて、マンションが建っている。山崎津跡の説明版が立っていなければ、港の面影も何も無い場所である。マンションは、このことを意識してなのかどうか、入り口部分に瓦葺の屋根が拵えてある。まあ、瓦葺を見たところで港を思い浮かべるような人はまずいないとは思うが。
ふうん、ここが港だったのか、と思い、地面を強く踏みしめてみる。何の変哲もない、硬いコンクリート。港っぽく、水の感じだとかそういうのもちょっとくらい期待していたんだけれども、こんなところを踏みしめたくらいで水を感じたらそれこそ大変なわけで。感動と少しの落胆が入りまじったような変な気持ちに勝手になって、その場を去る。少し進んで何の気なしにふと顔を見上げると、天王山がどしりと構えている。しまった。もう一度、山崎津跡の説明版のところまで戻って、こんどはじっくりと山の光景を見る。この港に訪れた人々は、まずこの光景を目の当たりにした。孤高でいて、飲み込まれてしまいそうで、でもどこか優しくて。舟上から眺めるこの景色がどれほどのものだったのか。さぞかし素晴らしかったであろう。羨ましい限りだ。

そう、確かにここは僕の地元だけれども、この散歩を楽しむためには、旅人の気分を忘れちゃいけない。近所の散歩じゃない、旅行の気分。いつもは住人として、来客をもてなす立場だけれども、今回の旅では、存分に大山崎という町にもてなされようではないか。よし。

人は、失敗からものを学ぶ生き物なのである。