2016年2月3日

節分の鬼を取り合ふところより

『土佐日記』には「相應寺」なんてお寺が出てきたけれども、いまはどこにもない。もともと商工業が発達していた大山崎の地に、八世紀半に建立されたのが相応寺というお寺らしいけれども、そのお寺も衰退して無くなってしまった。
ただ、JR山崎駅からすぐのところにある離宮八幡宮の境内に、「相応寺のかしき石」というものが残っている。相応寺にあった三重塔の心礎だったものらしい。塔が無くなってからは、離宮八幡宮の門前から門内の現在の位置に移され、柱の建っていた円形の部分が扇型に掘り窪められ手水鉢として利用されたという。なかなか数奇な運命をたどってきた石だ。それほど大事な石だったのか、はたまた、使い勝手が良かっただけの石だったのか。いまでは、いつのものか分からない雨水に落ち葉が浮いているだけで、果たしてこの石がどのようなものとして扱われてきたのか窺い知ることが出来ない。

さて、離宮八幡宮であるが、創建を調べてみるとまたややこしい。淀川の向かいには、八幡市(やわたし)の男山に石清水八幡宮が鎮座しているが、こちらの離宮八幡宮ももともと「石清水八幡宮」であって宇佐八幡宮から遷座したものであり、ここが男山の八幡宮の元社であるだとか、もっと後になってできたものだとか、様々な説がある。江戸時代には、男山の八幡宮と山崎の八幡宮の両社が「石清水」の呼称をめぐる訴訟があっただとかそんな話もあって、こういう争いはいつの時代もあるものなのだなと親しみを覚えてしまう。

八幡市の男山といえば、トーマス・エジソンが電球のフィラメントにその地の竹を用いたことで有名である。川向かいのここ乙訓だって竹の名産地なのに……と、この話を聞くたびに負けた気分がしてならないのだが、こればかりは仕方がない。アメリカを照らしたのが八幡の竹でなく、大山崎の竹であったらどれほど鼻が高かったことだろうか。「石清水八幡宮」の名前も、電球のフィラメントも、全部川向かいの地に持っていかれてしまっている。脱線ついでに言えば、昨年、八幡市文化センター前にバスが止まっていたのだけれども、京都府八幡市と愛媛県八幡浜市の中学校だったか高校だったかが交流するイベントを行っていたようである。「八幡」がつく自治体自体それほど多いわけでもないが、これを「やわた」と読むのはこの二つの市だけとのこと。「やはたのかみ」だったものに漢字「八幡神」があてられるようになり、神仏習合のときに「八幡」を「はちまん」と読んだという流れだから、同じ「八幡」でも「はちまん」と読む地よりは八幡神と古くから関わりのある地と考えてよいのだろう。八幡浜市の語源も、この地の浜に八幡神が立たせられたという伝承があるのだという。八幡市も、八幡浜市も、由緒正しい八幡の地なのである。もう一点思い出したことだけれども、八幡市文化センターは音響面でもかなり良いホールで、プロの楽団も録音に使うことがある。

なんだか、とことん負けている気がしてならないので、とりあえずこの話はここらへんでよしておく。