2016年2月9日

春時雨まづ弔ひの香を立てて

201629

天王山の登山ルートには、いたるところに秀吉と光秀の戦いをめぐる何かしらのものがあるのだけれども、山頂近くの木々が生い茂った中に、周りとは空気の異なる、ひときわ静かなところがある。十七人の志士たちの名前がそれぞれ一本ずつ刻まれた墓碑が、激動の幕末の記憶を今に伝える、「十七烈士の墓」である。
季節外れの雪の降る中、雛祭のために登場しようとしていた井伊直弼一行が突如、江戸城桜田門外で斬られて以来、江戸幕府の終末がついに目に見えて現実味を帯びてくるようになった。
それから3年経ち、尊王攘夷運動が頂点に達した頃の文久3(1863)年8月18日、尊攘派の公卿らや長州藩は京都を追放されることとなった。「八月十八日の政変」および「七卿落ち」である。一方、この事件で株を上げたのが壬生浪士組であり、功績を讃えられ「新選組」の名前を拝命するのである。どんどんと歴史が動きを見せている。
翌年、元治元(1864)年6月5日。三条大橋のたもとにある旅籠「池田屋」にて長州藩の尊攘過激派の連中が御所焼き討ちの密議を行うという情報を得た近藤勇・土方歳三ら新選組はすぐに討入りを計画する。このとき新選組は木屋町の料亭「丹虎」にて密議を行うという情報も得ていたために、やむなく近藤隊と土方隊の二つに隊を分けての準備となったが、粒ぞろいの近藤隊が先陣を切り、「御用改めである!」と乗り込んだ。三条大橋の擬宝珠にはいまもそのときの刀傷が残っている。これは新選組単独の功績となり、爛然たるその名を世間に轟かすこととなるのである。

この事件をきっかけに長州藩は上洛を図る。池田屋事件から1ヶ月もたたないうちに長州藩は嵯峨嵐山のほうにある臨済宗総本山天龍寺へ屯集しはじめ、誰もがこれから起こる大きな戦を予感せずにはいられなかった。あの夢窓国師の圧巻の庭を前に当時、戦の火種が育まれつつあったのだと考えると、身顫いせずにはいられない。
7月19日、伏見長州屋敷・嵯峨天龍寺・大山崎(天王山が中心)の三箇所に屯集して入洛の機を伺っていた長州藩はついに動き始める。伏見における陽動作戦で幕府方の主力隊を引きつけておきながら遂に嵯峨の本隊が禁裡近くにたどり着き、近辺を守衛していた一橋兵の砲撃を受ける。

「蛤御門の変」の火蓋がここに切られたのである。