2016年2月10日

根踏まねば行けぬいただき人来鳥

蛤御門の変、あるいは禁門の変。いまでも蛤御門は京都御苑を取り囲む門の一つとして存在する。本来の名を新在家門という、立派な高麗門である。禁門という名の通り、開くことの無かったこの門は、天明の大火により一度だけ開いた。これを、火に炙られることで固く閉ざしていた口が開く蛤に見立て、いつしかこの門は蛤御門と呼ばれるようになったのだという。洒落のきいたなかなか粋なネーミングではないか。
いまなおこの門は、元治元年(1864)年7月19日の激しい戦の記憶を現代に伝え続けていて、生々しい弾痕をいくつもそこに認めることができる。

長州側の主戦派には、真木和泉守保臣(まき・いずみのかみ・やすおみ)という久留米藩の神官出身の志士と久坂玄瑞の率いる浪士隊もあった。大山崎・天王山の地に陣営を構えており、禁裡付近での戦闘に加わったが、西郷隆盛率いる薩摩軍に敗れ、久坂は自刃、真木は敗残兵とともに天王山までたどり着いた。激しい戦闘はたった1日の間だけの出来事であったが、その時の戦火により21日朝まで京都市街が燃え上がったという。「どんどん焼け」と言われる大火である。真木和泉は逃げる途中、小倉神社(大山崎町字円明寺)の神官より金の烏帽子と錦の直垂を贈られ、これに着替えている。

約200名の長州方の敗残兵が天王山にたどり着くと、ここで最後の軍議を開く。ここに立て籠ってもう一度戦を仕掛けるか、国許へ退却するか。すぐに結論は出なかったものの、国許へ退却することに決まったが、この地に残った者たちがいる。真木ら17名の志士たちである。敗残兵を無事に国許へ返すために、殿を買って出たのである。もともと強硬派としてこの戦いを推し進めてきた真木にとって、この戦いの敗北の責任は重いものとしてのしかかっていたに違いない。京の地を長州兵の血で汚した責任を取る覚悟でいたのだろう。

彼らは宝積寺に陣を構えた。かつて秀吉が光秀を討つために陣を構えた場所である。ここで彼らは「尊王攘夷」「討薩賊会奸」を掲げて追手の新選組と会津藩を出迎えた。
「我は長門宰相、毛利家家臣の真木和泉守である。お互いに名乗り合って戦おうではないか」
堂々たる名乗りに、新選組局長も答える。
「我は徳川の旗本、近藤勇だ」
すると真木は御所を拝し、「大山の峯の岩根に埋めにけりわがとしつきの大和魂」と詠じた。辞世の句である。真木らは勝鬨をあげ、発砲しながら山頂へと走り去っていった。近藤らが追うと、山頂近くの小屋から炎が上がっているのが目に入った。急いで駆け寄る近藤の目に入ったのは、自害して果てた黒焦げの真木ら17人の志士たち。爆死自害である。真木和泉守保臣、享年52歳。

新選組は、蛤御門の変の際、伏見に配置されており、ここではついに長州兵と一戦を交えることはできなかった。これが最後の機会、と大山崎まで追ってきたものの、彼らは先に自害してしまったのだから、この戦についてはまったく武運が無かったといってしまってもよいだろう。17人の烈士を近藤は「敵ながら天晴れ」と称え、山頂に「尊王攘夷」「討薩賊会奸」の旗を立てた。そして、宝積寺の三重塔の前に彼らを葬ったという。秀吉が天王山の戦いの勝利を祝し一夜で建てたといわれる塔である。風通し良く日のよく当たる、明るい場所である。

しかし、長州藩に同情する地元の人も多く、真木を「残念さん」と親しみ参拝する人が絶えなかったことに幕府は頭を悩ませ、一般の人々の天王山登山を禁止するとともに、寺の裏の竹林へと改葬した。のち明治元(1868)年、真木の嗣子により山頂近くに埋葬されることとなった。

木漏れ日の降り注ぐ山上、彼らの墓からは木々の間をとおしてほんのかすかに、山崎の地を眺めることができる。