2016年2月16日

ものの芽や墓も道標も石ひとつ

※(「道標」に「しるべ」とルビ)

2015.2.16スピカ

桂川河川敷公園と小泉川をはさんで反対側の場所にも河川敷公園がある。淀川河川公園大山崎地区で、国道171号線からだと、ダイハツ京都工場の敷地から小畑川沿いに回り込んで裏手に行くとたどり着く。工場の脇の道は自動車製造工場らしく独特の臭いが立ち込めているのだが、公園にはそのような臭いはなく空気もいい。ここは淀川河川公園のうち最も上流に当たる場所にある。桂川と宇治川、木津川の三川が合流して淀川になり、この合流地点はもう少し下流にあたるためまだ淀川ではないのだけれども、まあいい。こちらの方の公園は芝が敷かれており、明るく開放的で、一人でいても気持ちがよい。バーベキューをすることもでき、時期が来ればそのような客で賑わう。そういえばむかし、自分自身もここでバーベキューをしたことがあり、久しぶりにこの公園を訪れると刹那、感慨に耽っていた。いまの時期だとさすがに人は少ないのだが、それでも散歩する人がいたり、サイクリング客、5,6人のハイキング集団がやって来たりと、それほど寂しい場所でもない。

バーベキュースペースの奥には芝生広場が拡がっていて、大きな岩が点々と転がっている。自然公園らしく無造作を装いながらも計算されて配置された岩かとおもいきや、これこそが「大阪城残念石」なのだという。大阪城の残念石はいろんなところにあって、大阪城を築城あるいは修築するとき石垣に使われるはずだった石が、運搬用の筏から落ちてしまった、などといった理由で大阪城の部分になれずに終わってしまったものがそう呼ばれている。大山崎の地に居場所を得たりという感じでもうこの地に馴染んでいるのだから、400年以上は経っているいまとなってわざわざ「残念石」と残念さをぶり返すのもあんまりな気はするのだけれども、そういえばこの公園のどこを見渡しても「大阪城残念石」なんて書いてあるものはないし、知る人ぞ知る遺跡という扱われ方をしているので、どう考えてもこの石をわざわざ「大阪城残念石」と紹介する自分が野暮なのである。野暮だけれども、単なる岩であったときより、歴史を知ったうえで接したときのほうが岩に対する親しみを覚えたのだから、仕方がない。

特にこれといった目印も見つからないような岩もあれば、楔を打った痕跡のようなものが見受けられる岩もある。結構な量が転がっていて、全部が全部残念石なのかどうかよく分からない。仮に「こっちの岩は残念石だけれども、あっちの岩は違います」と言われたとしても、勘違いとはいえ一度は親しみを覚えた岩、そう簡単に赤の他人のような扱いもできまい。大阪城の石垣になる、なんていう大層な歴史でなくても、どの岩にもそれぞれの過去があるのは確かなのだから。とはいえ、他の石の歴史のおこぼれを与り受けるかたちになってしまうのも、これまた仕方がないことだと思う。