2016年2月27日

入山の一礼に息春りんだう

20160227

大山崎山荘美術館から、「天王山竹林のこみち」とよばれる一本の道がのびている。はじめは杉の木が立ち並んでいるが、いつしかその光景は竹に変わる。途中に神照院(じんしょういん)という単立寺院へと続く道があり、「不許酒肉五辛入界内」と彫り刻まれた石が立っているのだが、ここは入山禁止となっている。寛永12(1635)年建立の寺院らしい。この位置、どう考えても秘境中の秘境といっても過言ではないだろう。一度は立ち入ってみたいものだ。

天王山竹林のこみちを抜けると、山崎聖天(やまざきしょうてん)の下にたどり着く。正式には観音寺といい、真言宗系の単立寺院。案外細身の門があり、脇には「不許葷酒入山門」と彫られた石。先ほどもそうだったのだが、こういう類の戒めをみるだけでも心が引き締まるような気がする。この門の先はかなり急な勾配の階段で、一番上の様子がどうなっているのか下からではよくわからない。数えてみると全部で140段ほどのこの階段、息を切らしながら登りきると結構広い境内に出迎えられる。……なんてちょっと気取って書いてみたけれども、まず目についたのはカラフルな鉦の緒。白、赤、黄、緑、縹といえばいいのだろうか、あまり色彩には詳しくないのだが、とにかく明るい色づかい。五色と言われて思い起こされるような青・緑・黄とは比べ物にならない。なんとなく異国の雰囲気すら漂ってしまう。まあ、なんとなく、でしかないのだが。

昌泰2(899)年に寛平法皇(在位時は宇多天皇)によって創建されたとのこと。昌泰、といえば、昌泰4(901)年の「昌泰の変」が思い起こされる。右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言により大宰府に左遷されることとなった事件である。宇多天皇はずっと道真の後ろ盾になって時平の独走を抑えていたのだけれども、法皇になってからはしばしば比叡山や熊野三山にしばしば参詣するものだから、ついに時平を抑えられなくなってしまったという側面もあるようである。
このお寺は、一度衰退したけれども、この地にあった聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊とし江戸時代初期に箕面(みのお)の勝尾寺(かつおじ)の住職によって中興開山されたという。ここには鎮守として歓喜天も祀られていて、鴻池家や三井家の信仰を受けていたようで、ほかにも京都や堺などの商人の参詣もあったらしい。こうしたことで、ここは歓喜天の別名をとって「聖天さん」と呼ばれるようになったという。禁門の変の際には予め避難していた十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外は焼失してしまい、現在の建物は明治時代に再建されたという。
歓喜天というのは、真言宗(東密)・天台宗(台密)での天部の護法神で、ヒンドゥー教のガネーシャを起源に持つ。象頭人身の2体の立像が抱擁しているような姿のものが通例で、なかなか見慣れない姿。
ここ山崎聖天の絵馬には、この歓喜天のシンボルである二股大根と宝珠がデザインされている。

もともと山崎聖天(観音寺)の他に西観音寺というものがあったようで、(となりの島本町山崎の)サントリー山崎蒸留所のところにある椎尾神社の由来がこの西観音寺なのだという。西観音寺は明治期の廃仏毀釈運動により廃寺となり、その際本堂は山崎聖天に、閻魔像は宝積寺に移されたのだという。この椎尾神社、「ローヤル」というウイスキーと関わりが深く、ボトルの蓋のデザインはこの神社の鳥居だし、この神社の桜吹雪をイメージしてブレンドされているのだという。桜といえば山崎聖天も桜の名所である。

山と川に挟まれたこの狭い地域に、大黒天に閻魔王(現在はどちらも宝積寺)、そして聖天という様々な神さまが集まっていた。そして山上には牛頭天王。大山崎という狭まった地形ならではの信仰世界といってもいいのかもしれない。