2016年2月26日

春の虹貨物列車に貨のまばら

源氏の血を受け継ぐ足利氏と新田氏。それに対し、平家の血を受け継ぐと言われる北条氏、そしてその一派の名越氏。そう考えれば、なんだか鎌倉幕府の最期というのは源平合戦の再来であるかのようにも思えてしまう。そういえば、平家の邸宅もかつて六波羅にあったし、平清盛は六波羅殿という別名を持つくらいである。

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の建武新政府により天皇親政をついに実現したかのように思えたが、武士たちの支持を得られたとはいえず、後醍醐天皇(諱は尊治)から偏諱を賜って改名した足利尊氏が離反したことで建武新政府は3年ほどで崩壊してしまう。この尊氏の離反をきっかけに、大覚寺統(後醍醐天皇方)と持明院統との対立が顕在化するようになり、二つの朝廷が並立する、いわゆる南北朝時代となる。
幾多の争いを経てついに室町幕府が成立、征夷大将軍となった尊氏は、弟の直義に政務を任せ、自分は武士の棟梁として軍事面を取り仕切るという、いわゆる二頭政治のかたちで政権をにぎる。しかし尊氏の補佐を務めていた執事、高師直(こう・の・もろなお)の権力が強くなっていくことで、直義(守旧派)と師直(革新派)とが対立するようになってきた。そしていわゆる、観応の擾乱が始まる。
師直はじめ高一族が謀殺されると、革新派の層の支持を得ていた尊氏は直義との政争に敗れたかたちにはなったが、勢力を失うどころか却って支持を集める結果となった。政争の間に、守旧派の政治観に見切りをつけた武士が多くいたのだろう。師直の死により一時は平穏を見せた幕府であったが、再び尊氏が立ち上がり直義一派の排除を図る。その間、尊氏も直義も、南朝方についたり北朝方についたり、最終的には直義が敗れることとなる。尊氏による毒殺である、とも伝えられる。

兄が弟を殺す。これもまたどこかで聞いた話で、頼朝・義経の兄弟がまさしくそうであろう。はじめはお互いが頼り合っていた兄弟、しかし兄が天下人となり、最終的には邪魔となった弟が追われることとなる。頼朝・義経の場合、軍事の才があったのは弟義経のほうではあるが、それにしてもここまでの偶然の一致を見てしまうと、身顫いしてしまう。血というものは争えぬものなのだなと強く思うのである。

話を少し戻す。尊氏は最終的に北朝方についたことになっており、この事実が歴史に大きな影響を与えたのが、江戸時代、幕末である。水戸学というものは結果的に討幕の礎を築いたようなものだが、ここでは南朝が正統とされている。つまり、足利将軍家は逆賊。こういう背景のもと、文久3(1863)年2月22日に起こった足利三代木像梟首事件。尊氏、義詮、義満の三代の木像と位牌が安置場所の等持院から持ちだされ鴨川の三条河原に晒された事件である。そういえば、等持院の庭は立派だが、借景であるはずの衣笠山は、立命館大学の建物に隠されてしまっているのが少し残念。それはさておき、この事件により、京都守護職を任されていた会津藩主の松平容保は激怒し、それまでの言路洞開の路線を転換、取り締まりの強化をはじめ、ついに壬生浪士組、のちの新選組を結成させることとなるのである。その新選組と大山崎との関わりも、以前に述べた。大山崎という地で話を掘り下げていくだけで、面白いくらいに歴史がつながってゆく。

足利高(尊)氏が鎌倉幕府に反旗を翻す最終の契機となった久我畷の戦いが繰り広げられ、また赤松円心が六波羅攻略の拠点としたここ大山崎。250年ほどのちには羽柴秀吉と明智光秀とが天下分け目の戦いを繰り広げる。さらに280年ほどのちには長州方の殿軍が壮絶な最期を遂げた。実はそのすこしあとの鳥羽・伏見の戦いのときにも大山崎は舞台となっており、かつての山崎橋のたもと、八幡側の橋本には旧幕府軍の新選組本隊が布陣し、これには対岸の大山崎から津藩が砲撃を加え旧幕府軍に大きなダメージを与えた。戦の歴史でみる大山崎である。実に壮観。

久我畷と西国街道の交差点からあまり離れていないところ、名神高速道路と並行して、JR・阪急の線路と立体交差をする跨線橋がある。「天王山古戦橋」という名前がある。ここはJRの方は特に線路数が多く、また線路の向こうの景色も良い所で、いわゆる「撮り鉄スポット」としてその筋には有名らしい。もしや跨線と古戦をかけたのではという思いが拭いきれないのだが、ここを通りかかるたびに数多の古戦に思いを馳せ感慨に耽ってしまう。