2016年8月15日

ひらひらと綾原(あやはら)に鹿(しか)(な)き果(は)つる

中学生のときに倉本聡の脚本を読むのが好きで、小遣いを貯めては買っていた時期があった。市立図書館に行けばいくらでも読めたのにあえてそうしなかったのは、本の内容が大事だったのではなく、むしろそうした変わった本を読んでいるということを周囲に誇るための証拠を残しておきたかったからだろう。いかにも中学生らしい行動である。だから、あれほど熱中したにもかかわらず、僕はわずかな例外を除いて倉本聡の作品が嫌いである。
倉本聡の脚本を買っていたのにはもう一つ理由がある。それは、本屋で注文しないと買えない本だったということである。そのころはインターネットが普及しはじめたばかりで、ネットで本を注文するなんて思いもよらなかった。僕の近所に「スペース・ユー」という小さな本屋があった。僕はここに週に一度は通っていた。お金はないので、なんとなく店内を眺めて帰るだけである。そして何より、月に一度注文の依頼をするのが快感であった。これもまた、本が好きだったゆえの行動というよりも、そういう習慣を持っている自分を定期的に確認し誇らしく思うための涙ぐましい努力であったにちがいなく、いま思えば、そういうやりかたでしか自分を誇れなかったらしい中学生の僕はひどく喜劇的であった。
この「スペース・ユー」から、いつしか年賀状が届くようになった。差出人は宇野某となっていて、横に小さく店名があったのでそれとわかった。店の主人は怖い顔をしたおじさんで、話をすることはほとんどなかったが、常連客と認められたような気がしてとびあがるほど嬉しかった。そして「スペース・ユー」の「ユー」は「You」ではなく宇野の「U」なのではないかとひそかに推測した僕は、この秘密を他の誰にも知られまいと思ったものである。
これらはたしかに僕の記憶していることなのだが、それにしてもよくできた思い出話で、その結末もまたこうした思い出話にふさわしく喜劇的であった。というのも、数年後、「スペース・ユー」は閉店してしまったのである。僕が中学を卒業する間際のことだった。