2016年8月21日

(およ)ぎ出(で)て三浦(みうら)や三度(みたび)(よ)び交(か)はす

 

子どものころに出会って以来、印象の更新されることのない名字というものがある。たとえば山本とか鈴木とかいった名前は、その名字を持つ人が多いだけに、さまざまな「山本」「鈴木」に出会う確率も高くなるわけで、それだけに初期の印象が比較的薄くなってくる。それに対して、珍しい名字はほとんど印象の変化がないようだ。そしてそのような名字は、僕の場合たいていは小学校のときの、教室の後ろに貼ってあった習字の文字や、模造紙に調べ学習の結果とともにカラフルな文字で記されたいびつな文字の印象とともに記憶されているようである。

この初期の印象が薄れずに残っている名字を、僕は今でもたくさん持っているような気がするが、それは僕の人付き合いの浅さを自ら証明しているようなものだろう。思えば、そもそもこの名字の印象が、決してその名字を持つ本人の声の記憶とともに甦ってこないこともまた、他者との対峙のしかたにおける僕の致命的な欠陥を示唆しているようである。