2017年2月3日

電球に豆撒く手影音乾く

ばんごはんはよそうどおり、「ひもじい日」でした。おかずは作っていません。のこりものと、うめぼしと、白ごはんと、つけものだけです。うめぼしが大すきなまいは、うめぼしばかり食べて、わたしと母の分がなくなりました。ごはんもすきなので、あっというまに食べおわりました。母は、のこりものを中心に食べていました。わたしは、ふりかけをかけようとして、おこられました。「ひもじい日」は、ふりかけをかけてはいけないし、ラーメンを作ってもいけないのです。

「ひもじい日」は、その月のいつあるかきまっていません。わたしたちは、おかしもいっぱいあったり、けしごむもえんぴつもつかいきれないほどあって、ものがなくてこまることや、おなかがすいてたまらないことを知らずに生活しています。だから母がわたしたちに、わざとひもじい思いをさせる日を作ったそうです。わたしは、
「『ひもじい日』がカレーライスか、すきやきのつぎの日だったら、のこりものがごうかでいいなぁ。」
と思っています。でも、のこりものがたいしたことのない日になります。
わたしの家では、かぞくで食じに行くのも月に一回だけです。レストランに行っても、
「どうせ、きみらがのこすき。」
と言って、父と母は、自分の食べたいものを少ししかちゅうもんしません。でもそれは、お金やものをだいじにしているのだということを、わたしは知っています。このことは、「ひもじい日」と同じ考えだと思います。

わたしは「ひもじい日」が大きらいです。けれど、「ひもじい日」を考えた母がすきです。でも、「ひもじい日」がいつも父のいない日なので、(ちちだけずるい)と思っていました。だから、父が「ひもじい日」にどうしてさんかしないのか、母に聞きました。それは、父はかぞくのために、一生けんめいにおしごとをしているからだそうです。まだ、父が子どものころは、わたしたちのようにものがゆたかではなくて、ものをだいじにすることを知っているし、ひもじい思いをしたことがあるからだそうです。

わたしは、一年生の人けん作文はっぴょう会で、「ひもじい日」の作文をぜん校生との前で読みました。学校の先生や聞いていたお母さんたちも、「ひもじい日」をする母とおなじ気もちになったみたいで、じっさいに「ひもじい日」をまねているおうちもあるそうです。
母は、一年の時の「ひもじい日」の作文をだいどころにはっています。すごく気に入っているのだと思います。わたしは、三年、四年、五年、六年、まで「ひもじい日」の作文を書きつづけたいなぁと思っています。ちょうど母のたん生日が十一月二十三日なので、この作文を毎年の母へのたん生日プレゼントにします。かんしゃの気もちをこめておくります。

※多少の手直しを除き原文ママとした。                    小2のリリカより