2017年2月12日

ふきのたう何も感じれない映画

喫茶店に入ることに少し抵抗があった。ぎゅうぎゅう詰めの空間でコーヒーを飲むよりも自宅でひとりそうしている方がよほど有意義に感じていたからだ。足を運ぶ時に限ってミスタードーナッツは若者で溢れているし、スタバもファッショナブルな感じがしてちょっとこわい。

バイト終わり。映画を見るまでの2時間をいかに使うか。うーむ。しばらく歩こう。

うーむ。雨だしな、寒いよな。うーむ。

よし、入ろう。

そんな感じで若干後ろ髪をひかれる思いで喫茶店に久々に立ち寄った。
ところが合点、むちゃくちゃ楽しではないか!喫茶店!完全にナメくさっていた。

谷崎潤一郎の小説『秘密』中では、「男である」という秘密を抱えながら浅草をドーランの真っ白な化粧で女装をして歩く主人公の描写がある。主人公は男であるという「秘密」が秘密のままであることを考えながら、人を見ながら同時に人に見られている非日常のスリルを感じている。私が感じた「楽しさ」もまたこれに似た非日常の遊びの感覚だったのかもしれない。

誰かが特別なことをしていたり、端から聞こえてくる会話によほど面白いとかそういうことではない。ただふと見受けられる人の仕草や服装からぼんやり一人の像を考えるのが楽しかったりする。人は口にすることで相手に何かを伝えようとするけれども、口にしなくとも見えてくるものがあるはずなのだ。

喫茶店は仕草の宝庫だ。