2017年6月9日

オーケストラがつぎつぎ泳ぎだす土星

真のコミュニケーション齟齬とは、わかるものとしか分かり合えないということだ。このトートロジーは、言い換えれば、分かり合えるための条件は、わかるものであること、だ。
しかし同時に「書くこと」は投げかけることでもある。わかるということに、さまざまな位相があるのだとすれば、そこに書かれたものが、どれほどの強度で何ごとかを伝えようとしているということは、言葉の辞書的な意味に先がけて「わかる」はずではないのか。
だとすれば「分かり合う」というとは、その実定的な意味内容や価値ではなく、「分かり合えた」という形式的な「身振り」にあるのではないか。コミュニケーションとは耳をすませることであり、眼を凝らして見つめあうことで、話はそれから、なのだ。
そして、分かり合うことが「身振り」だとすれば、それは正に「謎」だということができるのではないだろうか。
お互いの「謎」について「分かり合う」のではなく、「分かり合うこと」自体が「謎」そのものではないのか。つまり、それは「わからない」ものとも「分かり合える」という「謎」だ。それは、何かがわかったのちに「分かり合える」のではないし、わからないものが条件つきで「分かり合えた」ものになるのでもない。
手元に届いたときには、それはすでに「謎」だった、というかたちで、「分かり合う」のだ。「書くこと」は、そのような相互理解に対して代補的に差し出される約束手形のようなものなのではないだろうか。

撮影した土星も描かれオーストラなかなか

不思議なことに「オーストラ」を一瞬で「オーストラリア」と空見し、さらに「オーケストラ」に空見する。それは未完成な語なのだが、考えてみれば人間の視野に欠落があるように、言葉にも欠落はありえるのではないか。
問題になりそうなのは、そのように欠落したものは「言葉」なのかどうか。そもそも「言葉」だと思われているものは、いかにして「言葉」であるのだろうか。
「言葉」が意味するよりも前にそれが「言葉」であることを理解するのか。
辞書を引く。しかし、なぜ意味のわからないものを「言葉」だと認識するのか。その意味が辞書に書かれていると、何をもってそう考えるのか。

言葉は、それが言葉であることを意味とは違う仕草で知らせる。「何かを伝えようとする」それが言葉が言葉である条件である。それは、ある種の「息づかい」であり「声の響き」である。
仮に土星からやってきた未知の使者が聞いたことのない叫び声をあげたとしても、その「息づかい」や「声の響き」を「言葉」として聞き取ることができる。

それが仮に「オーストラ」であったとしても、その呼吸は何か至急の用事を伝え、我々を導こうとしている。