2017年6月14日

誌面をかざるディテールひかる繭の量

一般的に、「ない」という領域は、「ある」という領域よりも広いように見える。ある存在者にとって、「いま、ここ」という時空は、かけがえのない一点として存在する。そして、その一点以外の空間は「無」だ。「いま、ここ」であなたと会ったときにだけ、あなたの存在を感じることができるけれど、その「いま、ここ」以外では、あなたは常に不在で、「いま、ここ」にいるあなた以外の、「いま、ここ」の外はどこまでも、あなたの不在で、それは、つまり、無限の不在だ。

しかし同時に、「りんごがある」、「みかんがある」、「バナナがある」という存在のバラエティに対して「ない」とは一様であり、「りんごがない」も「みかんがない」も、その「なさ」については、まったくひとつの状態のことだと、考えられていないか。「ない」ことは、フラットな、一様の「見えなさ」に還元されていないか。

量雑誌占め探る細部水アインシュタイン

ジジェクがよく例に出す相対性理論についてのお決まりの例え話が好きだ。
アインシュタインの特殊相対性理論は、重力とエネルギーの等価性を明らかにしたが、その際すでに「重力」によって空間がゆがめられることは認識されていたらしい。そして慣性系の世界を前提とした特殊相対性理論が、加速する世界における一般相対性理論へと展開されるにあたって、この「重力」が空間をゆがめる効果に対して、ひとつの視点の変化がもたらされる。つまり、「重力」が空間のゆがみの原因なのではなく、「空間のゆがみ」こそが「重力」そのものだということだ。

この視点の変化、つまり原因と結果の逆転は、我々のものの見方そのものに影響していると言えないか。

つまり、我々が見ているものは、結果としての「何ものか」による効果ではないか。われわれは、見ているものの向こう側にその原因としての「何ものか」を想定するけれども、実はその見ているものこそが、その「何ものか」そのものだということだ。世界は二重化されているように見せかけて、実はそれそのものを見せているのだ。

「量」/「雑誌」、「細部」/「水」とは、何を意味しているのか、とことばの奥を覗いても何も見えてこない。それは「量雑誌」、「細部水」という見かけそのもの、そこに顕れている「ことばそのもの」だということなのだ。

ここで特に気にかけなければならないことは、そのような「見せかけ」がいかようにして我々の目を騙すのか。その「見せかけ」から、どのように現実世界への視野を得ることができるのか、ということなのではないだろうか。