2017年6月15日

父の成長まくなぎを頭上に連れ

しかし本当に「ない」ということは、「ある」ことのネガティブな裏側、つまりたったひとつの「ない」という状態なのだろうか。しかし「りんごがない」と「みかんがない」は同じ「ない」という1つの有り様だと言えるのだろうか。
ここに「誰もいない」ということと、ここに「あなたがいない」ということは、同じ「ない」という状態だと言えるのだろうか。
そこに「りんごが」、「みかんが」という「ない」の主体が関わってくるのは、言うまでもなく「時間的」な視線に支えられている。
そこに「ない」ものは、いったい何だったのか。そこに「時間」があるゆえに、我々は「ない」ということについて、考えることができる。

つまり「ない」ということの、異様な「無さ」は、「ない」ということのポジティブな見え方だということはできないだろうか。「ない」ということは、まったくの「無」なのではなく、そこに「主体」を伴いながら、自分たちの目にはまったく「ある」と同じように、風景のポジティブな一部としてはっきりと見えているのではないだろうか。

驚くほど長いこ実感する成長パターン日取れた

いったい「成長」というのはどのように与えられるのだろうか。
ある瞬間、「あ、俺、成長してる」というようなかたちで与えられるのか、それとも昨日、今日、明日、という時系列における、自分自身の差異化によって定量的な経験として「成長」する自分を認識することができるのか。もし、そのような定量的な「成長」というものがあるのであれば、それは逃れられない時間のなかで自然に「年老いる」ということと区別されるのだろうか。
なるほど。「成長」というのは、つまり自分自身にもたらされた時間的「老い」の「読み」なのかも知れない。

つまり、単純な生物的変化を事後的に意味づけたものが「成長」なのかも知れない。であるからこそ「成長パターン」という定められた「みちすじ」を想定することができる。事後的に自己のあり方を意味づけるために参照可能な辞書的「成長パターン」によって、日常的な人間の営みを客観的に評価することが可能になるかも知れない。
けれども、自分自身への変化というのは、そのような辞書的な形式化を経ずとももっと即自的なものとして、感じ取ることができる。それは実に小さな「成長」であるかも知れないが、確実な「成長」であるとも言える。

「成長」を急いではならない。「成長」パターンにあてはまらないような「ちいさな成長」の健気でかけがえのない時間の蓄積は、他者からの承認による早急な生成変化よりも「驚くほど長い」時間をかけて、もたらされ引き継がれてゆく。