2017年10月11日

秋の瀧神代の蛇の全長の

「季語」についての問題も噴出した。次は、角川『俳句』2014年3月号に掲載された小澤實の「福島を思う」という文章だ。

震災による原発事故後、季語の世界が汚されてしまったと、震災直後に書いた。新米をはじめとする農作物の季語が、放射線物質の汚染によって無垢な輝きを失ったと感じたのだ。その思いは今でも変わっていない。輝きを失った季語と付き合っていかなければならないのは、福島だけの問題ではない。

共有されて然るべきであった「季語」が上書きされてしまった。俳句における共同幻想的なものの被災。こういった延長線上に長谷川櫂の『震災句集』を置けば、「みちのく」の文化的記憶を詠みなおすことで復興させようとしていた、と言えないこともない。
「俳句」を下支えしていた共同幻想的な働きが、機能不全によって露呈されていた。それと同時に、物が物として読まれるわけではなく、メタファーとして読み終えられてしまうこともしばしば見られた。そこにあの抒情の匂いも立ち込めていた。