2012年5月4日

いつよりか言葉を探す恋とは何

最近の私の関心2:戦後俳句史(現代史)

そこで私が始めた反省は、まず、戦後俳句史を分類してみることだ。

①「戦後派」(生年が大正5~9年、青年期を生後迎えた世代)の時代。

②「昭和戦前派」ないし「ポスト戦後派」の時代。

③「戦後生まれ」の時代。

私が、「戦後俳句史」を書いているつもりが、その大半が、戦後派俳句史になってしまっている理由は、言い直せば、「ポスト戦後派」と「戦後生まれ」がつまらないせいではないか。句がつまらないとは言わない、歴史が面白くないのだ。「戦後派」の活躍は、西部の活劇のように、まさに血湧き肉躍るさまが映像となって浮ぶ。一例として、赤城さかえの『戦後俳句論争史』を読むだけでも、講談を聞いているように心がうきうきする。しかし年代で言うと、昭和40年頃からどんどんそうした事件がうせて行く。

「戦後生まれ」の時代が心躍らないということに関しては、私自身「戦後生まれ」なので慚愧に堪えないが、一方で評論家であるので、平気な顔で人ごとのように「慚愧に堪えない」と言える。もう少しまじめに言えば、外山一機のように「たしかに俳句史の産声を聞いたはずなのに、その産声がどこかで途絶えてしまったのではなかったか。僕は、そもそもこの問題が解決されない限り同様のアンソロジーをいくら出したところで状況は変化しない」(「詩客」俳句時評)と額にしわを寄せていうべきかも知れないが、あまり私の性格には合わないので、それは外山にまかせる。

私は「戦後生まれ」の評価を断念して、評論家らしく転身し、戦後生まれに後続する世代を考えてみたいと思う。私が、今歴史が生まれていると思うのは、・・・(以下次回)