2012年5月5日

ぼうふらよいつか蚊となり人を刺せ

最近の私の関心3:超戦後俳句史(現在史)

私が、今歴史が生まれていると思うのは、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』(平成21~23年)で登場した新人、あるいはこれに後続する新人たちである。

歴史にもなっていない世代を論ずるというのは一見妙に聞こえるかも知れないが、むしろこれは論理的な帰結なのである。この世代が何も残さなかったら俳句は次の時代に残らない。「ポスト戦後派」「戦後生まれ」を含めて俳句史には残らない。それならば、戦後俳句史としてもうこの世代(私は『新撰』世代と呼んでみたいと思うのだが)の歴史は始まっているのであり、資料は少し不足しているが、俳句史的記述をしてみてもよいのではないか。そんなことを考えて「超戦後俳句史」(「戦後俳句」を超越した歴史)という言葉を発見した。これは、『新撰』世代のための用語だ。

「超戦後俳句史」が難しいのは、「現代史」であると言うことである。歴史の記述の対象が未だ生きている人であり(例えば神野紗希)、その人が「超戦後俳句史」を読んで励まされたり、反発して別の動きをしたり、舞台から消え去ったり、さらには自分で歴史研究をして新しい学説を提示してしまう、と言う観測不能な要素が多いことである。

更にいえば、これから起こることも含めて「超戦後俳句史」的史観で照らし出すと、まさに起こっている現在、これから起こるであろう歴史も対象にすることが出来る。これは「現代史」を超えて「現在史」となるであろう。「詩客」では「超戦後俳句」の名のもとに、「現在史」を作る作業を始めた。その作業の裏側を、このスピカで少し披露したいと思う。

ただその前に、「現在史」はいつの時代にもあり得ることである。私が経験した古い現在史を紹介したい。かつて「沖」に猪村直樹という作家がいた・・・(以下次回)