2012年6月16日

つまらなく揺れる釣り糸旱星

(承前)

似たような感覚を、日本にいた時に覚えた。アルバイトで、美術館の写真コンテスト審査員の補助をした時のことだ。僕達は300枚の写真を数人で運び、ファッションショーのごとく、プロの写真家である審査員の前で掲げて立つ。5人の審査員は0~3点の札をあげるというシステムだった。途中で僕は「あふれる笑顔」というタイトルの写真を掲げた。よさこいのイベントでの踊り子の、非常に気持ちいい顔の写真だ。審査員は迷わず全員0点の札をあげた。彼らは、この写真を撮った人とは、全く違う価値基準を持って生きている。

去年の1月、紗希さんと華子さんが講師を務める淡路島の俳句ワークショップに参加した時に、こういった気持ちを相談した。すると、華子さんがこともなげに「あら、じゃあ終ってから時間をかけて詠めばいいじゃない」と言ってくれた。その時は驚いたが、今思うともっともな感想だった。面白い俳句があれば、「よさこい」や「京炎 そでふれ!」が季語になる日も来るかもしれないが、おどりを始めて4年目に入った今でもその手段は見つからないでいる。

決しておどりを否定しているわけではない。当たり前だが、おどりと俳句は違う、ということだ。俳句は自分のサクセスストーリーのためにやるものではない。一筋縄でゴールというものがわからないからこそ、僕は俳句をやっているのだ。なんだかわからないものには、それ特有の面白さがあって、その感覚を人に伝えるのも、また難しい。