2012年6月17日

南風や錨は夜に溶けたがる

去年、「関西学生俳句会 ふらここ」という団体を立ち上げた。東京だけでなく、関西にも若い人が俳句を楽しむ地盤を作りたい、という気持ちで始めた。10~15人の集まりで、「映画句会」や「裁判傍聴句会」など、なるべく面白い企画を組んで(ここが関西らしさだろうか)、新しい俳句を生み出せるかをひたすら試していた。

去年、一緒に会を立ち上げた先輩がこんなことを言っていた。「最近駱駝にハマっててさ、駱駝で100句できるか試してるんだよね、駱駝で遊んでるの。」これは衝撃の一言だった。僕ならせいぜい10句、それも大したことのない俳句を作るのが関の山だろう。あの人のすごいところは、こういうことをなんでもないように言ってのけることだった。

ある時、ふらここで「徹夜句会」なるものを企画した。深夜0時に京都の四条大橋に集合し、北へひたすら歩く。普段と違う深夜のテンションで面白い俳句ができるか、という実験だったのだが、雨が降り出してしまい、急激に全員のモチベーションが低下して終了。予定を変更して居酒屋に行った。

飲んでいたのであまり覚えていないが、写真もやっている、さっきとは別の先輩の話が面白かった。「人と違うものが見たい。ここに空のジョッキがある。このままだと誰が撮ってもただのジョッキだ。だから…俺はここに箸をぶち込むのさ!」空ジョッキに斜めに刺さった箸が奇妙だった。僕らの集まりも似たような奇妙さを持っているといい、と思った。

この種の会話が、いま、非常に懐かしい。この会話を英語で行うのも、こういう話に身を乗り出してくれる人を探すのも、非常に難しいからだ。高校生・大学生の俳句集団は基本的に自分たちがマイノリティである意識を抱えている。俳句甲子園の影響で、俳句をする若い人が増えているように言われているけれど、若者の全体数からすれば微々たるもので、僕たちはやはり、マイノリティなのである。だからなんだというのだ、俺たちは面白い。その思いを、どうやったら見せていけるのか。それが鍵だ。