繭の香をまとひ体操着のふたり
未来
(…)充満状態にある名前の中にはつねに《未来》がある。同様に、ある語が美しいと私が言うときも、ある語が気に入ってそれを使うときも、それは決して、その語の音の魅力やその意味の独自性のせいではなく、また、その両方の「詩的」な組み合わせのせいでもない。《これから私はその語とともに何かをすることになる》というあの想念に応じて、その語が私を連れ去るのだ。それは、ある未来の行為の示す身ぶるい、いわば《食欲》のような何かである。(…)
ロラン・バルト「絵具としての語」 『彼自身によるロラン・バルト』佐藤信夫訳 みすず書房・1979年 p201
昨日の写真、絵本を見ている私の写真。そこに字はなくて(あっても読めない)、絵を見ているだけ。けれども、きっと《これから、ともに何かをすることなる》《語》と出会う準備をしていたのだと思います。もちろん、《語》は本の中にだけあるのではないにしても。