朝の蜘蛛シーツにたましひの残る
思い出
ヴィラ・アドリアーナでの幾朝か。オリンピエイオンの回りをかこむ小さなカフェで過ごした夜また夜。ギリシアの海を頻々と往来したこと。小アジアの旅路。わたしのものであるこれらの思い出を役だたせるためには、それらが紀元二世紀と同じくらいわたしから遠ざかったものとならねばならなかった。
マルグリット・ユルスナル『ハドリアヌス帝の回想』多田智満子訳 白水社 1964年 p300
個人的な記憶が、個人的なまま、場所の記憶・時代単位の記憶とまじわることなく、それらに包まれることもなく、孤立して在るのなら、そうした時間の捉え方は、つまりは貧しく、ちょっとさみしい。
それは個人的と言いながら、じつはのっぺりとして、思い出の類型を思い出し語っているに過ぎないのかもしれません。
ふわっとした言い方になりますが、個別性の際立つ思い出が、場所や時代の個別性と結びついたときに、生き生きと美しい表現になるのでしょう。
これは俳句の領分なのか否か(むりやり俳句に結びつけている)。