『季語別 鈴木真砂女全句集』を読む 第四回

 

●共感のシステム

 

「死なうかと囁かれしは蛍の夜」と「鯛は美のおこぜは醜の寒さかな」の句の違いは、共感できるかできないかってことになるんですかね・・・。

 

いや、むしろ「死なうか」のほうが、共感はできるんじゃないかな。体験がなくてもね。「きゃー、そんなこと、言われてみたい~っ」みたいな。

 

昼ドラ系の(笑)

 

なるほど(笑)

 

共感っていう意味でいえば、まさに恋の句は共感を媒介にして、読まれるものだよね。俳人だけでなくて、俳句をしない人にも真砂女さんが愛される理由は、共感できる、恋とか仕事とかいう共通の情念の土壌があるってところが大きいんじゃないかな。多少、俳句独特の技法、かなとかけりとか入ってると、リテラシーを知らない人には俳句が読みにくかったりするんだけど、食や着物や恋の話だと、そういう読みがたさをクリアーして、俳句のリテラシーをもたない人間でも読めちゃう。内容が伝わる。

 

でもやっぱり、『夏帯』『夕螢』のころになると、真砂女さんにサービス精神がはたらいてる気がしますね。恋にしても、もちろんフィクションじゃないとはいえ。

 

たとえば?「夏帯や働く限り身は枯れず」?

 

「人は盗めど物は盗まず簾巻く」とか。なんかそういう・・・

 

(相田)みつをすれすれ。

 

世間的に有名になったことと、句の変化に、どのくらい影響関係があるんだろうね。

 

いや、それはもともと知られてたんじゃない?こんだけ句に出てるから、やっぱりばれるよね。

 

俳句でお説教っぽくなると、ちょっと鼻についちゃうかな・・・

 

罪障とか、罪系の言葉がよく出てきちゃう。

 

る理ちゃんのいうサービス精神って・・・

 

求められる真砂女像っていうのが、熟れてきて出てくるっていう。

 

求められる像を裏切らない時間がしばらくあった。

 

はい。

 

「去年今年いのち一つに何懸けし」みたいにいわれると、ちょっとお説教されてるよな。うちのおばあちゃんは好きだろうな、ってかんじなんだから、支持者はいると思うんだけど。

 

そうそう。

 

そのとなりの句、「金柑の甘さとろりと年迎ふ」なんていうのは、金柑甘いって感じてるところからも、感情が読みとれる。すっぱいと思うタイミングもあるしね。「とろりと」ってところにもお正月のいい時間、いい気分があるよね。でも「いのちひとつに何懸けし」っていわれると、大みそかってそうやって振り返る日だよねっていう一般概念を、どうしても超えていかないっていう、残念感はあるよね。もちろん、ど真ん中でいっても、「蛍の死や三寸の籠の中」みたいにひしひし伝わってくる句はあるんだけど、言葉でずんずん来られると、今日はそういうこと聞きたくないって日もあるっていうかんじかなあ。

 

盛ってる感じがしちゃうのかな。

 

外の顔見てる、舞台の顔見てるってかんじ?

 

そう。女将の顔・・・女将キャラで詠むこともあれば、ものすごい恋をしてますっていうキャラで詠むこともあって。わりと泣く泣かないって話、多いじゃないですか。そうそう、だから、〝話〟ってなっちゃうんですよね。「とろろ擦って隠れ泣くこと今はせず」っていうかと思えば、かくれ泣いてた頃もあったり、女とはそういうもんだとか。「我が泣けば烏が笑う朝ぐもり」とか。わりと泣いてるんですよね。

 

そだね。「涙雨らしく雨降る二月かな」とか、珍しいやり方でつくってるけど、やっぱりテーマとしては真砂女っぽい。

 

「菊日和泣かねばならぬこともなし」って句はちょっと好きですね。

 

「さびしいかさびしくなくはなき青野 石田郷子」みたいな。

 

そうそう。あと、「泣く話」とか、幸せ不幸せとか、一句で物語を感じすぎて・・・こっち(読者)の問題なんですけど。「罪障の雪に断ちたき命なり」(『夏帯』)とか、ちょっと、すごい、よね。

 

そういうふうなものを、積極的に自句自解して、むしろ自分の人生とばんばんリンクさせていくんだよね。

 

サービス精神って、つまりは、作家としての意識が高いってことですから、最初の『生簀籠』に比べて、だんだん作家性が強まってくる感じはしますよね。

 

 

●女性俳句の系譜の中で

 

そういう意味でいうと、鈴木しづ子もおんなじタイプかなあ。ふたりとも鈴木。鈴木真砂女が、女性俳人の歴史の中で扱われるときに、どうしても特殊な人に扱われてる印象があるんだよね。境涯が奇異だから、有名だし人気もあるけど、どうしても正統に扱われにくいような。

 

その点では鈴木しづ子も、ってこと?

 

しづ子も、なまなましい句をたくさん作ってるんだけど、しづ子と真砂女の違うところは、黒人将校との恋愛が赤裸々に描かれたセンセーショナルな内容で話題になった、しづ子の第二句集は、しづ子の意志ではなくて、師が送られてきたものの中から選んで出版したんだよね。しづ子は、結局、その出版パーティーを最後に、姿を消してしまった。でも、真砂女さんは、ずっと俳句を作り続けた。腹据えてた、かくすところは何もない、っていう。

 

それで作家性を保ってる、キャラ立ちしていってるところはあるよね。自分らしさっていうのを、いちはやく・・・

 

俳句で作家性を出すって結構・・・

 

うんうん、むずかしい。

 

でも、それがあると強い。たとえば、真鍋呉夫だと「雪女」みたいな。作家のキャラクターって、インパクトになるよね。

 

やっぱり、代表句が出ない俳人なんて、ものすごいいっぱいいるわけで(笑)

 

句を読んだだけで、この人の句って思えるような特徴とか個性みたいなもの。真砂女の句らしい句を作ってるよね。俗に接近しつつ、季語と文体を上手に使って、俳句としての品格も保っていく。

 

 

●指輪と爪切り

 

真砂女さんの句の良さをアピールするという観点でいくと・・・

 

背景があったほうがいいってこと?

 

うん、そうじゃないかな。本当は、句を仕立てる技術があるから背景が活きるんだけど。

 

「鏡台に抜きし指輪や花の雨」(『生簀籠』)ってあるじゃない。日常の風景と思って普通に読んでたんだけど、自分で解釈しているのを見ると、一回東京に出てきて、鴨川に戻ったときに、旦那さんが指輪を送ってくれたっていう話を読んじゃうと、指輪ってフレーズが句に出てくるだけで、敏感に反応しちゃって・・・やっぱり、二度読んだときに、より強く印象に残るんだよね。

 

なるほどー。

 

真砂女はそれを、武器っていうか、あわせて自分で思ってるから。

 

自句自解も積極的にしてるわけで。

 

当時の自分の状況や恋愛と一緒に、句を説明してるもんね。

 

あったことだよってこと、明記してる。

 

それがなくても、ちゃんと読めるクオリティなんだなって思う。

 

やっぱりそれは、技術が・・・

 

内容と、書き方と・・・「唇の荒れて熱引く二月かな」(『紫木蓮』以降)とか、背景がなくても楽しめる。

 

「今生の今が倖せ衣被」。「衣被」の着地が絶妙だよね。それこそ「今生の今が倖せ」ときて、メロンとか薔薇とかいやだし、みみっちすぎてもかなしいし。衣被って、一応手間かけてるものじゃない?芋洗って、茹でる前に皮に切れ目を入れて、つるんと剥いて。でも上品なものってわけでもない。手を懸けて美味しくするってところが、幸せ感として、絶妙なんじゃないかな。

 

恋の句もふつうにいいなって思うよね。「爪切る手人にあづけて春愁ふ」(『紫木蓮』以降)とか。

 

え、これ、たぶん病床じゃないの?

 

うん・・・

 

あれ?そうなの?

 

でも、恋の句に読めちゃったってところが面白いね。

 

真砂女さんっていわれると、そういう頭があるっていう・・・

 

真砂女の引力かもしれないよ。

 

これ、真砂女じゃなかったら、恋の句でもいける・・・

 

えええー、それは無理でしょ(笑)

 

爪を人に切らせるって状況に、恋愛も入ってくるのかどうか。

 

え、華さん、切らせるの?(笑)

 

 

●まんぼうと紫木蓮

 

あとは有名なところでいくと「戒名は真砂女でよろし紫木蓮」だよね。句の中に真砂女って書いてる。

 

タレント性として、卯波っていう小さい路地でお店をやってる女将が作った句っていう前提を持つ、前提っていうか、自己紹介っていうか。そういう句が多くて、意識的に作ってますよね。

 

そう。だから、好みでいえば「まんばうと顔突き合わす亡種かな」とかのほうが、私としてはリアルなかんじがするんだよね。まんぼうってたしかに「顔つきあわす」ってかんじする顔をしてる魚だよね。ゆっくり来るし。でも真砂女さんの句、っていわれたとき、やっぱりまんぼうは、ぽくない。戒名の句のほう挙げちゃうな。まんぼうの句は、私性が減ってるよね。真砂女さんの自我っていうのはいったん消えて、誰でもない、ここにいて生きている私っていうくらいの私性で、まんぼうと向き合ってるよね。

 

そうだねえ・・・

 

真砂女さんの句は、ストレートな物言いがきもちいい。くよくよしない。だから、句を通して、人間性に惚れさせられてるような感じもするんだよね。

 

俗との距離感に気を使ってる、その距離感がうまいなって思う。

 

真砂女さんの句、これ、口語でやられるとちょっと評価できないってかんじでしょう。改作前の「着たい食べたい五月の銀座歩きたや」だって、最後が「や」になってて、俳句らしさを保ってる。「歩きたい」だったら、三つの動作のうちどれか変えてちょっと工夫しないと、平板になりすぎちゃう。あまりにひっかかりがない。

 

言葉の使い方が、俗との距離感をうまくとる方法、このひとのうまさなんだよね。

 

季語はあんまりはなれてないですけどね。形がやっぱりいい。

 

そうだね。季語をうまく使ったり、文語を使ったり、内容が一番俳句から遠いところにあるかもしれないので、ある意味昼ドラや演歌の世界を、昼ドラや演歌っていうと悪い評価に聞こえるかもしれないけれど、あれだって、人が生きていく上でのたしかな一面だよね。その人生のどろどろした部分っていうのかな。俳句では、自然を見て癒される方向のほうがよく耕されてきたけど、そのどろどろを読むのも大事って思わせてくれる。

 

(続く)

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