初夏やしづかな河原まで家出  江渡華子

前回述べたような境界が現れているひとつが掲句だ。この静謐さはどういうことだろうか。文体はぶっきらぼうといってもよい投げ出し方をしているにも関わらず、初夏という季節、しづかな河原という空間認識、家出という自己認識(これは決して本当の家出ではない)は、全体として調和を保ちながら、夢の世界のように歪んでいる。
掲句に限らず、今回の一連の句の中にも、

窓に這ふなめくぢり窓越しに触れ
大鷹の烏に混ざる鉄の橋

など、不思議な幻想性を持った句は華子さんの句によく見られる。
それ以外の句が生な現実感を持ったものであることが多いことで、これらの句はさらに存在感を増している。これはおそらく、華子さんの現実の認識の仕方において、他者の視点と自己の視点が非常に近しいであることに由来するのではないか。前に華子さんの句に動詞が多いこと、感覚と言葉が近しいということを言った。それは華子さんの物事への認識がなんらかの動作を起点として始まり、それへの認識が自己由来のものなのか他者への感情移入によるものなのかが曖昧なまま言葉になることを意味する。その曖昧になったままの言葉は、句になることで視点のブレを呼び、自己の物とも他者の物ともしれぬ不思議な視野を獲得する。

一人ゐる昼のトンカツ屋の水菜

この句に僕が華子さんを見たのは、最初の「ひとりゐる」という現状の認識から入るという句の構成からだったのかもしれない。ひとなつっこくて(動作を起点として句が始まるのは自分/他人に対して強い好奇心があるということだ)ざっくばらんな(感覚と言葉が近い)華子さんならば、僕に対して「このまえトンカツ屋に入ったらひとりっきりでー」と明るく話してくれそうだ。そんな状況を想像して、僕はひとりで楽しくなってしまったのかもしれない。

(「家出」2012.05より)