春泥を拭ふ軍手やここも宇宙   野口る理

る理さんの俳句の大きさについて何回かに分けて書こうと思う。俳句はミクロなものを詠めば不思議な普遍性が生まれたり、マクロなものを詠めば個人的になったりしてまことに扱いづらいものであるが、掲句は、上五中七の土俗感を座五で転換するというある種の典型をとりながらも、その転換が個人的な感慨かつ茫漠しすぎていて、何のリアリティもないはずの雑に置かれた座五があぶり出し的に普遍性を獲得しているという、まあ、変な句だ。前回る理さんは個人的なことはあまり句の材料にしないと書いた。しかし、改めて今回のる理さんの句を読み返してみると、感想や現象レベルではプライベートなことがかなり句材になっていて、正直驚いた。この読後感と実質の不思議なずれについても今後書ければよいと思う。

「ここ」(2013.03)より