梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど   外山一機

なげやりな態度が気を引く句だ。ほっとけないかんじの句である。

  

別にこっちは「見たい」ともなんとも言ってないのだが、こう言われると、なんとなく立ち去りがたい心持になってくる。何か作業をしていて、じっとこっちを見ている子どもがいるので、話しかけるが、返事がかえってこず、やはりじっとこっちを見ている、ということがあるが、その子どもになった気分だ。

  

「ゝ」が使われているところも変だ。なんで「いいけど」じゃないんだろう。その一点のみで、句が妙にレトロな印象をもつ。こう言ってる人のテンションは、『エヴァンゲリオン』の碇シンジくんに似ている。

  

『新撰21』(邑書林 2009年12月)、外山一機100句作品「ぼくの小さな戦争」より。

  

   

さて、藤幹子氏が「炎環+」で、スピカの座談会の、外山氏を話題に挙げた記事に触れてくれている。

  

「誠実と陳腐」

  

藤氏は文章中、外山の「Ooi Ocha」句から、コンセプチュアルでシニカルな姿勢を読むことを「狭い世界の暗黙の了解」が前提にあるように語っているけれど、では、藤氏が指摘するように、一句の情報だけで読むことが、どんな場面においても誠実な読みだ、といえるのだろうか。私は外山の句の良い読者になりたいと思っているし、そう読んだつもりだ。時代や俳壇のコンテクストを踏まえなければ作品を理解したことにならない、とはいわない。けれど、コンテクストを踏まえなければ“よく理解したことにはならない”という場合もある。高野素十の「甘草の芽のとびとびのひとならび」に「これはこういう時代に作られたからこういう句ですね」と言ってもあんまりこの句にとって幸せなことと思えないが、少なくとも外山のくだんの作品群は、コンテクストを踏まえたうえで読まれるべきだ。それと、十七文字以外の情報があるので自分の友人の作品を客観的に見ることができない、という問題とはまた別だろう。

  

一句を読むときの態度として、いろんな段階がある。

  

①17文字の情報だけを読む。

(たとえば太宰治であれば一編の小説のみを読む)

②発表された作品全体(タイトルを含めて)を加味する。

(一冊の書籍としてまとめられた作品群にどんなものがあるのか、考慮して読む)

③その作者がこれまでにつくってきた作品を考慮する

(初期の作品と比べてみたりしながら読む)

④その作者の実人生を参照する

(その時期、太宰は一度目の自殺未遂をした、という情報を汲んで読む)

  

どの読み方がその句にとって本当に幸せか、実は読者は句の前に立つたび、その選択に迫られている。無意識にひとつの読みを選択している人もいるかもしれない。もちろん、私のそのとき選んだ読み方が正しいかどうかは分からない。しかし、これがこの句にとって幸せだと信じて、読んでいる。そもそも、コンテクストを知らなければ読み解けないことを指摘するのも、批評が「全ての読者」に対してできる大きな仕事ではないのか。

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