(萩原井泉水編『新編一茶俳句集』岩波文庫、1949)
毎日読むかは別として大抵の俳人の本棚には芭蕉、蕪村、一茶ぐらいは並んでいるかと思います、軽くて手頃な岩波文庫を愛用されている方も多いと思いますが、さて今回紹介させてもらいますのが岩波文庫萩原井泉水編『一茶俳句集』です。これはですね、僕がもうダメだと絶望するたびに読み返す愛すべき名著です。特徴としては約1200句が季題分けとされていて、同じ題の中で年代順に並べられています。あとは巻末に『一茶の俳句とその一生』という小論が付いていて、さすが井泉水、読むと興奮してしまう名文となっています。ベタ褒めだけど、まぁ実際良いのだから仕方がない、選が井泉水好みとなっていて読んでいて飽きない。
一ぱいにはれきる山や弓始
キスミントぐらい気持ちが良い
さりとては此長い日を田舎哉
このどうしようもない平和感が良い
寝ておはしても佛ぞよ花が降る
極楽とはこの事よ、手塚『ブッダ』が読みたくなる
じつとして馬に嗅るる蛙哉
噛まれたらひとたまりもない、草野心平の詩集が読みたくなる
蝶が来てつれて行けり庭のてふ
つれて行くという表現が素晴らしい、優しくてちょっと寂しい
わか草や我と雀と遊ぶ程
最近疲れてるのか雀と遊びたい気持ちがよくわかる
けいこ笛田はことごとく青みけり
けいこ笛が良いですね、青むとよく合ってます
手にとれば歩きたく成る扇哉
何が書かれている扇なのか想像するのも楽しいですね
はいかいの地獄はそこか閑古鳥
僕は前からこの句が大好きで、そんな地獄なら少し覗いてみたいもんです。
朝やけがよろこばしいか蝸牛
これなんか井泉水が好みそうじゃないですか、山頭火が定型の句を作ればこんな感じですかね。
とうふ屋が来る昼顔が咲きにけり
これなんか、全く古い感じがしないんですがどうでしょう?明るくて親しみのある町を想像します。
貝殻の山からも出る秋の月
貝殻の山、なんてのも現代的な気がします、僕は一年間信州に住んでいた事がありますが、海が見たくて仕方がないので川ばかり見てました。
秋風に歩行(あるい)て逃げる螢哉
ね、つまり秋螢なんですよね、命が健気。
稲妻にへなへな橋を渡りけり
情けなさが可笑しい
六十年踊る夜もなく過しけり
去年ホームラン音頭というのを見たのですが、踊ってほしいな。
ふんどしに笛つつさして星迎
田舎なんだけど星迎で少しお洒落になった句ですね。自分のふんどしだしね、うん、汚くない。でも、はい♪と渡されても嫌
けふの日もああ蜩に鳴れけり
あぁ悲しい
鰯めせめせとや泣く子負ひながら
なんとも言えないあわれ、「めせ」が効いてますね。
羽生へて銭がとぶ也年の暮
そうか、だから僕も困ってるのね
雪の山何を烏の親にあたふ
「あたふ」の余らし方が感情がはみ出したようで良いですね。雪の山とズバリ置いたところも良い
御ひざに雀鳴く也雪佛
雀が可愛い過ぎる
初雪や雪駄ならして善光寺
初雪が気持ちが良いですね、僕が学生の頃、雪駄は男だ、となぜか流行ってました、僕は買いませんでした・・・。
鳶ひよろひよろ神の御立げな
これ季語わかります?「神の旅」です、こんな作り方もあるんですねぇ、さすが一茶
芭蕉忌や鳩も雀も客の数
鳩や雀も大切なお友達
よい雨や茶壺の口を切る日とて
よい雨がまことによい気持ち
我宿へ来さうにしたり配り餅
こいっ、こっちまでこい!カモン餠!とこれぐらい必死であって欲しい
月花や四十九年のむだ歩き
むだ歩きこそが楽しいと言わんばかり
ついでにせっかくなので『一茶の俳句とその一生』より
以下引用
こうした正直な告白―在来の俳句というものが風雅という取りすました品の好さを性格としていたのとは正反対―俳人としての恥も外聞もかなぐりすてた、赤裸々な一人間の真情というものを、それを敢えて俳句として書いたというところに、一茶俳句の俳句史の意義がある。
僕の『一茶俳句集』は古本屋で買ったのですが、このページには前の持ち主が鉛筆で線を引っ張っており、スバラシイと書き込みがあります。
この本は一茶を研究する時よりも、むしろ萩原井泉水を研究する時に良きヒントとなるような気がします。
あ、ここまできて残念なお知らせですが、なんとこの『一茶俳句集』今は絶版となっています、古本屋ではすぐに手に入る状況ではありますが、こんな良い本です、また出ないかなぁ。
今さら一茶はね、と言って良いほど読み込んでいる俳人は、実のところ僕を含めて今はあまり居ないのではないでしょうか、勉強になるからではなく、面白いからと言う理由で、ぜひとも萩原井泉水編『一茶俳句集』手に取ってみてください。
(了)