いつも誰かが起きてて灯してて落葉の家  伊丹三樹彦

落葉降る中にぽつりとともる家を、外から眺める視線でもって、家族というものの本質的なあたたかみを、絶妙な距離感でとらえた。
いつも誰かが起きているということは、朝早い人もいれば宵っ張りの人もいるということ。必ずしも家族それぞれの時間が重なるわけではなく、それぞれ一人の時間を過ごしていることも多いだろう。けれど、その家には常に明かりがともっていて、確かに彼らが住んで、そこで生きているのだ。喋り口調で「起きてて灯してて」と畳みかけることで、日常感や、なんともいえない気持ちが募ってくるような感じが、ナチュラルに伝わってくる。
「落葉の家」という表現も良いのだろうな。「の」で接続させて省略を効かせると、ある種造語のような味わいが出て、その言葉自体が詩語となる好例。数日前に取り上げた、堀下翔の句の「渚の木」も同じ。

伊丹三樹彦著『写俳亭の書写句文集 梅』(青群俳句会 2016年2月)より。